稽古と向き合う
先日、塾生のM君と飯を食べたときに、「そういえばだいぶ前に小山支部は組手慣れしているから云々、みたいなことを言われました」という話が出た。
文脈から察するに「組手が強い」という褒め言葉を頂いたようです。ですが、スミマセン、それ、ちがいますよ(笑)。
むしろワタシ、基本をうるさく言います。私自身の“お手本力”は高木塾長より当然落ちますから、その分、言葉で補っているわけです。
剣道の基本打ちみたいに、ミット打ちを行うことはあるけれど、その時だって勢いとか重さより、体重移動がスムーズに出来ているか、とか、打った時の姿勢が崩れていないか、ということに重点を置いている。
忘年組手の前だからって組手もしくは組手用の稽古を増やす事もない。それよりも組手を行う前の、いわば所作とか心構えとか、その辺のことを言います。
余談ですが、組手の際の礼とか所作は、私がお相手いただいた慎吾ちゃんが素晴らしかったですね。心身が相手にきちっとフォーカス出来ている様子が、よくわかります。DVDをお持ちの方は良く御覧になってください。
稽古相手にきちんと礼を出来ないというのは、武道以前の問題です。組手が多少強くても、礼をしたときの所作が見苦しいのはねぇ。
念のためですが、礼法の知識の話をしているんじゃないですからね。道徳の話でもないですよ。礼の仕方を習ったとかどうかではなくて、向き合って礼をした時点で体勢が総崩れの人っているじゃないですか。それって厳しく言えばそもそも相手と向き合えて居ないってことでしょ。
基本をおろそかにするっていうのも同じで、これは太気拳に向き合っていない、ということだよね。向き合えて居ないから、先生から手渡された技よりも、自分の創作を大事にするんでしょう。
勝てれば何でもよい、というのは稽古より自分を優先する姿勢です。
自分を向上させるために稽古するのか、それとも、自分の正しさを観てもらう為に稽古するのでしょうか?