我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

兵法至極と思い出の校舎

高木先生に、年末の忘年組手の内容をお褒めいただいた。

空手の指導員経験がある184センチ100キロ(塾長談)のYさんを抑え込んだ試合のことなのだが、押し込まれたシーンもあるし、多少のダメージもあった。

たまたま今回はそこそこの立合いができたが、もう一度やればわからない。

格闘技的には面白い試合だったかも知れないし、若干の進歩も感じられたという意味では達成感もあるが、一方でこういう戦いはいつか卒業しなければ、とも思う。


こういう戦い、とは「相手の強さに自分も強さで張り合う戦い」とでも言おうか。


なんとなれば、強さで張り合って勝ちを得る戦いと言うのは、裏を返せば強い者には負ける戦いということであるからだ。

弱い者には勝ち、強いものには負け、互角には相打ちというのでは埒が明かない、と言ったのは剣聖・針ヶ谷夕雲だったっけ。


夕雲の言う“相抜け”の境地はともかくとして、この“埒の明かなさ”は武力と武力をぶつけ合う対症療法の虚しさから生ずるものではないだろうか。

宮本武蔵も若い頃の連勝を「わが兵法至極にして勝つには非ず」と断じたのも、若さゆえの蛮勇や体力で勝ち抜いた対症療法の虚しさを悟ったゆえであろう。


では兵法の至極とはいかなる境地か、といえばこれは私にはワカラナイ。

ただこれは剣豪小説の中の話ではなく、近年にも拳聖・澤井健一先生をはじめとしてその境地を体現した達人の存在伝えられる。

高木先生のお話から察するに、澤井先生は力とか速さとか技という、所謂“強さ”で相手をねじ伏せたわけではない、と思われる。

すなわち現在の私の組手の延長線上に澤井先生の境地は、ない。いつか澤井先生の居た場所をその片鱗でも見てみたい。

そのためには今居る場所というか段階は、いつか別れを告げる“思い出の校舎”である。


しかし・・・力と技で張り合う組手を経ずして力と技を受け流す境地はあり得ない。

いつかは卒業しなければならない場所だから、こそ大事にしたい。今は力と技と速さ、そして闘志を前面に出して張り合う組手を、精一杯行じて行く。


いつか“思い出の校舎”を懐かしく振り返る日が来るだろう。


そう言えば卒業シーズンが間近だね。あ〜。なんだかカラオケで川嶋ちゃんの『旅立ちの日に』を歌いたくなってきたぜ。


旅立ちの日にhttp://www.youtube.com/watch?v=2GtVO9sdCaA