我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

兵法の至極

今更ながらではあるが、本格的に武術をやる者は生活を正さねばならない。なぜかならば、澄み切った心身でなければ、拳の理法は体現できないから。

もちろん、自分に向けての言葉です。はい(笑)。最近の俺、少し不規則な生活に戻りかけていたからね。

中には、いやいや、俺は目茶目茶な生活をしているけれど誰にも負けないよ、とおっしゃる御仁もおられるだろうけれど、狭い範囲で誰かと比べて強いとかどうだとか、しょぼいこと言ってんじゃねーよ。

まあ、無敵なら無敵で良いけれどさ、今のずんダレた自分が生活を正した自分を仮想敵にして立ち合う事を想像してみれば良い。ほ〜れ、勝てないだろ?ん?

もっと言えば、具体的な○◎さんとかではなく、自分の追及する武術の理法を相手にしてみれば良い。生身の人間は欠陥だらけであるが、正しい拳なり剣なりの理法というものは、“真理”というべきものが武術という形で顕れたものである。

「人を相手にせず、天を相手にせよ」と仰ったのは、西郷南洲である。私のような凡人に、いきなり天を相手にせよ、と言われても途方にくれてしまう。

その方法論はは各人で見つけ出すべきものであろう。当然であるが、選択した道と方法によっては、絶対に真理にはたどり着けまい。

私にとって真理へ至る道は、武によって切り拓いて行くのが性に合う。

アメちゃん得意のディベートじゃあるまいに、「筋はともかく勝ったから正しい」、などと浮かれていると、そのうちに手痛いしっぺ返しが来る。

いくら組手や試合で相手に勝った所で、多くの場合、たまたま相手が自分より不合理であったか弱かっただけのことであって、自分が強かったわけではない。

宮本武蔵は命がけの勝負を生き抜きながらも、そんな自分の道のりを振り返り「兵法至極にて勝つにはあらず」と喝破した。

きっとそれ以降武蔵は殺し合いの無限ループから足を洗ったに違いあるまい。だからこそ、一介の野人に留まらず剣聖たりえたのだろうと思う。

拳にもそのような境地はある。

「仰々太気拳の真髄は・・・過現未三際より一切萬物に至るまで妙應無方なる気の本領を顕現するにあり」

許状に記された一文であるが、このような文言を遺された澤井健一宗師も、恐らくは兵法至極の境地に遊んだ方なのであろう。

百戦百敗の人間がこんなことを言っても「へそ茶もの」であろうけれど、腕っ節が強いというだけでは、どこまで行こうとそこに行き着くことはあるまい。

強さだけならば、人はゴリラに勝てない。しかし、ゴリラに礼を尽くして「先生!」と頭を垂れる人間は居ない。

国民的格闘技漫画の主人公は、ゴキブリに頭を垂れる人間らしいが(笑)


・・・冗談はさておき、境地に辿り着いた先人の魂の見事さに、人は尊いものを感じて頭を垂れる。

生涯をかけて「気の本領を顕現する」境地、そして「兵法の至極」に到達したいものである。