我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

いただきます!

売りに出される羊君達



私が昨年滞在していたA国の事務所の連中から、時々連絡が入る。今年はもうラ・イードをやったよ、という連絡を今日受けた。

ラ・イードは犠牲祭のこと。イスラム教の国では重要なお祭りで、日本で言うお正月みたいなものである。犠牲になるのは、羊さんだ。神様への捧げもの(生贄)になるわけ。

A国の国民は、ラ・イードが近づくと仕事が手につかない。もっとも、普段から仕事なんかろくすっぽやりゃしない連中なのだが

お祭りが近付くと、そこいら中で羊の売買が行われる。出来るだけ大きな羊を買い、男衆が屠殺して奥さん連中が羊料理をこさえ、親戚や友人連中にふるまう。

昨年は、逗留していた駐在員宅の屋上で朝稽古をして居る時(5時くらいだったかな)から、庭に繋がれた羊たちの鳴き声がそちこちから聞こえて居た。のんきな鳴き声だ。

稽古を終えて一休みしてから駐在員と外に出てみると、そこいら中で大惨劇が繰り広げられている。羊たちの公開処刑だ。男衆にかるくテイクダウンされた羊たちは、ナイフで喉をかき切られるまで大人しくして居る。

喉をかき切られて初めて悲痛な声を上げるが、すでに時遅し、というやつだ。血液が噴水のように噴き出す。そして子供たちは拍手して歓声をあげてその様子を見守る。女の子もだ。

男たちは屠った羊を手際よく解体する。血抜きが終ると皮を剥ぐのだが、足首あたりに切れ目を入れ、そこに口を当てて風船のように膨らませる。年寄りや体力のない連中は、自転車の空気入れで膨らませる。

金○までパンパンに膨らんだ頃合いで、ナイフを入れると毛皮がきれいに剥ぎ取られる。毛皮は寺院に寄付され、資金になると言う。その辺の親父が、恐るべき手際の良さでどんどん捌く。宗教上の理由から、きちんとしたやり方で捌かないといけないらしく、手順が確立されているという。

解体ショーが始まると、子供たちの興奮はさらに高まる。切り取られた臓物を持って走り回る子まで居る。皆、ご機嫌さんである。一種異様な雰囲気であるが、そもそも食うとは命を奪うことである。異様と感じるのは、どこかでそれを忘れている、ということなのだろう。

翌日は現地人のワーカーの自宅に呼ばれて歓待をうける。当然、出てくるのは羊料理だ。品の良い彼の奥さんも、別嬪さんの妹も、解体した羊を一日がかりで捌いて、美味しい料理を作ってくれた。

残しては申し訳ない。生贄になった羊君に。そして、解体してくれた友人と腕によりを掛けて調理してくれた奥方に。感謝してたらふく頂いた。

生きるとは、生命を奪うことである。奪った生命に感謝して調理せねばならないし、いただかねばならない。

だから私は下手くそな料理人と、たくさん注文して大量に残すやつ、こういう馬鹿どもを見ると心の底から怒りを覚える。お前らがバカだから、死ななくて良い生命まで死んだのだと。

小食でも大食でも良いが、感謝して美味しく頂き、残さない事。いただきます!そして、ごちそうさま!を言うこと。これが出来ない奴はクズである。そんなヤツはブン殴れ!俺が許す!