天衣無縫
県庁所在地の宇都宮はジャズとワインの街、ということで地域振興を図っている。
そんなわけで私も家内につきあって分からないながらもジャズを聴きに行くことがある。音楽に関する知識は、恥ずかしいほど乏しいのだが、ときには、思わずうなってしまうような名演奏に出会うことがある。
私にとってのポイントは、アドリブで譜面にない演奏をする部分。ここが素晴らしいと、音楽を知らない私でも引き込まれてしまう。
ここで客の呼吸を考えずに、あまりに自分のバチ捌きを長々と見せつけるような奴の演奏はうざったいだけだ。こういう奴には、絶対に拍手なんかしない。
プロのジャズドラマーは、舞台裏での稽古よりもむしろライブでの実践を繰り返し、あたかも戦国時代の武者が斬り覚えで剣を覚えうるようなかたちで腕をあげて行くのだというが、“斬り覚え”は自己流になり易いのではないだろうか。
駅前で歌う連中にとくに多いのだが、自己流の音楽の多くは、聴くに堪えない。自分の安っぽい思いだけを人様にさらすな、と。カラオケに行って唸ってくればいいじゃねえか。
クラシックもほんの数回聴きに行ったことがある。クラシック音楽の人たちは、幼少期から厳しい稽古を積んでいるので、確固たる基本の上に練り上げられた技術は素晴らしい。
しかし、アドリブの許されない世界であるためか、本当に生き生きとしたエネルギーを発する人は、少ない・・・ような気がする。
彼らはまずたいてい家がお金持ちで、正統派の師に就いて、音大を出てさらに留学までして・・・と30歳くらいまで親がかりという人間が多い。
世の中に揉まれた経験が少ないためか、線が細い人が多いね。テレビで見ていても、クラシックには天衣無縫で生命力が迸るような迫力のある人が少ないように思う。
確固たる基本と、生き生きとした生命力の両方を感じさせられたのは、超有名人で申し訳ないが、チェリストのヨーヨー・マさん。それからクラシック喫茶音楽館のリサイタルで拝見した80ウン歳のピアニスト・ワルター・ハウツィヒ先生。
日本人のジャズでは、宇都宮で聴いた高橋幹男さんのドラムが素晴らしいと感じた。
まあ、まったく見識が無い私の意見なので、音楽に造詣が深い方がお読みになれば、噴飯ものなんだろうけれど、俺の個人的な意見だな。
武術もそうなんだが、きちんとした正当な基本を身につけることは必須であるけれど、その行じる姿は生き生きとしていないとならない。
基本の動作と呼吸が自家薬籠中のモノになり、そこに澤井先生の言う“気分”が入って一応の完成ということなのだろう。
“気分”というといかにも簡単でいい加減なものに聞こえるのだが、これを整えるためには心身、とくに神経を整えないといけない。
簡単にキレたり落ち込んだりするようでは、気分が整っている、とは言い難い。それでは、駅前の自己中シンガーと同じレベルだ。
わが師匠の高木先生などは、すごい稽古をさらっと実行して、どこか他人事のような表情でそれを話される。
「別に変った稽古なんかしていないよ」とおっしゃるのだが、気合が入った時の集中度は凄まじいものがある。
あの天衣無縫な動きと立ち合いを行うことが出来るのも、至極、当然のことなのかも知れない。