我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

おゆとり様

先だっての帯研に参加してくれたHさんは、会社で新人教育の担当者をやることになったのだとか。彼は私と同学年であり、大学の体育会出身である。

そんなHさん、早々に「おゆとり様」との文化圏の違いに目眩を覚えてしまったのだとか。ここでめげずに、彼は自腹を切ってコーチングを学び始めたという。

コーチングでは「まずは認めること、否定しない事」を叩きこまれる。それが出来ない体育会系のHさん。何せ、体育会系の武道部は叱咤と否定から始まる。己を殺すこと、これが第一歩だからね。

自分の都合などどうでも良い。言われたことを出来るか出来ないか、それが第一で第二は無い。そんな世界で生きて来たHさん自身が、“部下を否定しない事”を提唱するコーチに否定されてしまう(笑)。

コーチ曰く「彼ら(=おゆとり様)は親も教師も友達で、体罰や強制から隔離されていたんだ。彼らは今、知らない親父に叱られて上下関係という未知の世界にパニックを起こしているんだ。そこを分かってやるのが、上に立つ者の仕事だ。まずは認めてあげなさい」

我々にとっては、体育会系の人間関係と言えばまずはタテの関係であった。私の部は比較的上下関係が緩かったであろうが、それでも平民になれるのは3年生からである。1年2年は虫けらや奴隷。

とは言え実はそんな人間関係をどこかで愉しんでいたようなところがある。上級生に言われる前に先手を取って用事をこなしたり、きつい稽古をこなしたりして、「どうだ!」と誇るようなことを競ってやっていた思い出がある。

上級生は上級生で、稽古で下級生を締めながらも、それとなく抜け道を用意してくれていた。もちろん、その抜け道は阿吽の呼吸で見出さねばならないのであるが、それがまた“人間力”を鍛えてくれた。

それを昔話として笑うのは良いが、問題はおゆとり様達が指導する立場に立った時ではないだろうか??同じような人間同士、うまくやるのだろうか?それとも、“下の者”に認めてもらえず、不貞腐れるのか。

人間力が無い人間が口先で褒めてもらって少々伸びた気になっても、本当に力をつけている者からすれば、お笑い草であろう。長期的には人間は叱って伸ばすものだ。叱って叱って、時々褒める。それくらいで良い。褒めてばかりでは、慣れてしまって、効果は薄い。

そもそも、人間力が無い者が上に立ったら、下のモンは不幸である。

まぁ、アレだ。きっと、褒める教育やゆとりの教育を推進することで得する連中が居るんだろうな。