我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

自分を磨く(型・躾・我慢)


昔むかし、剣術を稽古して居たことがある。その道場では、並行して柔や居合も稽古させて頂いた。社会人の稽古、ということで、先生も特別にしごきまくると言うことも無く、稽古も型稽古が中心でした。

型稽古、というと知らない人は「カタチや手順をなぞるもの」として軽視する。困ったのは武道を稽古する者にもそういう手合いが増えてきたことである。結果、書道で言う“楷書”の稽古が出来ず、“猿の叩きあい”に終始してそれで先生になることすらあるやに聞きます。

きちんと型をこなした人は、所作が美しい。武術家・武道家であるのなら、一見ざっくばらんでガサツな所作をしていても、そこに美がある、というくらいにはなりたいものです。

カタチにこだわらない、と言えば聞こえが良いのですが、“躾”がきちんと出来ない無責任さを“ほっかむり”しているだけのお子ちゃまみたいな親が、どれだけ多いことか。耳触りのいい言葉に騙されたらアカンよ。

古流の道場や剣道で感心するのは、所作の美しさです。お世話になっている練兵館でも、子供たちの礼儀作法や挨拶についても口やかましく指導されていると見えて、稽古に行くと、どの子も気持のよい挨拶を返してくれます。

試合でも、挑発行為は勿論のこと、ガッツポーズをしたら“一本”が取り消されるとか、眉剃りしている奴は失格とか、競技の形態をとりながらも「剣の理法の修練による 人間形成の道」というタテマエは崩さないようです。

人間形成をおろそかにする者に、棒きれで人を引っ叩く事だけを教えたら、トンデモナイ人間が出来上がる。相撲も立ち合いの前に蹲踞して気を鎮め、土俵に塩を撒いてお清めをしてから立ち合いを行うんです。

空手や拳法も同じですね。キチンと善悪や我慢を教わっていない人間が“拳術”なんて学ぶ資格はない。幸い、小山支部では良い方ばかり稽古に来て下さっているので問題なく進めていますが、今後のことを考え、その辺についても考え方をまとめておこうと思います。

私がこんなことを言うと笑う人もいますが、やはり武“道”と名乗るからには「強く・正しく・美しく」というものでないと、ダメですね。それと大事なのは「我慢」です。組手がチョット強いだけで「俺は強い」なんて勘違いしていたら、そのうちトンデモナイことになる。世の中、広いよ。

こう言ってはなんですが、凄まじい修羅場をくぐった方々とか、ケンカ名人といった人達とは、私は何度もお会いさせて頂いていますからね。身近に接したうちの親父やら伯父貴やらも喧嘩というとヤ●ザとか長ド▽とかハ×キとか、ピーな単語ばかり出て来る環境に居ましたから、“妄想系ネット名人”やらとは、ワシャ育った環境がちがうんよ。

親父を優しくすると、星一徹になる感じかもしれませんね(笑)。

その親父ですら、50歳過ぎても頭が上がらなかった絶対的な師匠が居たんです。陸軍○×学校の教官をされていた名人。「初めてお会いした時の立ち合いで、俺は殺されていた」のだとか。

この臨死体験(笑)があったからこそ、その先生に30年以上師事出来たのだと思います。きっと、親父、幸せだったと思いますよ。自分を叩いてくれる人間に会えたんだから。

若いうちはコワイ人だらけの中で我慢を覚えた方が良いんです!40歳過ぎた今だって、私は高木先生がおっかなくて仕方がないです。鷹揚なお人柄ですので、堅苦しい関係では無いかも知れませんが。

自分が弱いと思うからこそ稽古で叩きあげ、磨き上げるんです。そこの君!若いくせに「お達者倶楽部」みてぇな稽古してぬくぬくしてたら、ダメだぜ!?