我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

今、欲しいもの

昨日は「お勉強」に出かけるため、家内と早朝の宇都宮線に乗り東京へ。

時折都内で身体の遣い方を学ばせて頂いている。自慢だが、私は物事を学ぶ際の指導者選びの“勘”だけは冴えている。これが冴えていないと、ツマラナイものに関わって時間と金を費やしてしまう。

それはさておき。

格技・武術を稽古していて30歳代以降になると、「俺はあとどれくらい進歩出来るのかな?」という気分になる。特に体術の場合は「肉体の変化」という命題があるので尚更だ。

幸運なことに私の場合、少年時代から現役で稽古する4〜50歳代の先輩・先生を拝見して居るので、多少は人さまと価値観がちがうようだ。

現在の師匠である高木先生も50歳代半ば、そして、佐藤嘉道・岩間統正両先生は60歳代半ばに差し掛かろうという年齢であるが、進化の途上にある。


ただし、このような方はある意味「特別」な存在であるとも言える。何が特別なのか。それは進歩し続けるための「何か」に気付いてしまったという点である。

で、これはただ知っただけで自分の心身で確認しないと何にもならない。本物に触れ、実感して再現すべく工夫して行くしか無い。

冒頭の話に戻ろう。具体的な話は割愛するが、身体トレーニングの先生の動きは素晴らしいものであった。まだまだ私の心身には開発されていない部分がたくさんある、と再認識した。

つまり、まだまだ私は伸びしろがあるということだ。

私が金と時間をかけて学びに行くのは、高木先生の高木先生たる所以を自分の身に転写するためのヒントを得るため。さらに言えば、それを「伝える」ためのヒントを探すためでもある。

講習の後、柴又で少年部指導と太気拳の稽古。この日の高木先生は指導中にいつになく言葉をはさむ。こんな時は「耳ダンボ」だ。稽古の題材となる宝物がいっぱいだからね。

ただ、そのときは感覚の塊になっておられるから、言葉は長嶋カントクなのだけれど。それを自分の実感に変えて行くまでの試行錯誤が自分のセンスを磨いてくれる。

今、欲しいものはふたつ。常設道場と時間!なにしろ最近、稽古の上でやるべきことがどんどん出て来てしまっている。やるべきことは分かっている。やれば必ず進化するテーマがいっぱいだ。しかしながら、時間が足りない。嬉しい悲鳴だ。

・・・まぁ、せめて残業規制で早く帰れるうちに、出来るだけの稽古をやっておきたいものだ。