我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

時間がほしい!

家内は昔宝飾品の仕事をやっていたのだが、そのときの師匠の口癖に「師匠はふたりは持て」というのがあったという。

ひとつのことを多角的な切り口で見た教えを通してこそ、より本質に近づけるのだとか。

私もそう思う。ただし、素直な感性の持ち主であれば、の話だけれど。観取った映像をそのまま受け入れられることが条件だ。

素直に観取った上で、身体を通して確認して身に付ける。ここで大事なのは「言葉を通して」ではない、ということ。

言葉遊びが好きな人間は、二人の師匠になんか学んだら、アウトだよ。

先日の合宿では、佐藤嘉道先生のご指導があったことはすでに書いた。私にとっては、佐藤先生はいわば私淑する二人目の師匠。

その心技体の完成度の高さは言うまでもない。合宿後の高木塾長の指導も、佐藤先生の指導を踏まえたものになっている。

太気拳の師範と一口に言っても、澤井先生に師事した時期や期間によって受けた指導の内容も違うだろうし、師範自身の形成した太気拳像も澤井先生像も違って来よう。

本質は同じでも、どういう角度から捉えるかで表現の仕方が異なるのは、アタリマエだ。

言葉で捉えるという行為が習慣になってしまった人間には、この辺が実感として分かってもらうのが難しいだろう。

言葉はあくまで言葉であり、重要なのは内容だ。その言葉が伝える内容を感じ取ること。

感じることが出来ない人間、言葉遊びがクセになってしまっている人間、要するに受験秀才とマニュアル人間は、オソレオノノイテくれ。

「俺には武術の扉は開かないかも知れない」と。

今、塾長が伝えようとしている稽古はそれだけの高度なことだ。知識としてファイリングしている場合じゃない。

なにしろ、佐藤先生の稽古で一番変わりつつあるのが塾長だからね。目を皿のようにして観取らないと、おっつかない。で、観取ったら稽古あるのみ。

時間が、いくらあっても足りない!