我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

武道救国論 〜その2


日本の政治経済における現在の体たらくは、武の衰退にある、と前回申し上げたのだが、そもそも武とは何であるかという定義をあいまいにして論じても仕方が無い。

モノの本を開くというと、『武』という文字の成り立ちを、「戈(ほこ)と止めることである」、とか「戈を正すことである」という解説がある。

これらの解説がただしいものとして、私は「自己および家族、もしくはその所属する共同体を正常な状態を維持することを目的とする、敵対者の殺傷をも含めた有形力を裏付けにした危機管理能力」と現時点ではとりあえず考えている。


とても大雑把にひらたく言えば、『種保存を妨げる存在を排除する力』ですね。そのために戦うことも選択肢の一つとなる。


戦う力は正しく遣われないと暴力になってしまう。持っていてやたらと遣わないのが理想なのでしょう。

かく言う私自身、「バッチ来い」的な強気な発言をしているけれど、取っ組み合うのならむさくるしいアンチャンやおっさんとより、お姉ちゃんの方が良いやね(笑)。

そんな私の平和な日々を乱す輩はお仕置きしちゃうよ、というのがスタートなんだけれど、家族を持ったら、家長としては家族の平和を守らねばならん。

同様に、上司は(仕事上において)自分の部下を、社長は社員を、共同体の長は市民・県民・国民を守らねばならんですね。


守る、ということの意義や責任は、立場が上になればなるほど重く複雑になって行くのだが、上に立つ者にその気概が無ければ何にもならない。そして、その気概に比例した具体的能力が必要となる。


その能力を磨くのが「武の修業」である。どのような能力が必要となるのか、それを自分はどの程度持っているのか。その正確な把握が出来てこそ、必要とする能力を獲得することが出来る。

大の兵法、小の兵法、という言葉がある。一国のリーダーと小集団のリーダーでは求められる具体的能力は異なる。一国の宰相が御自ら斬った張ったの戦闘を行う必要はない。

しかし、軍事行動の最終決断をくだす権限を与えられたものが軍事を知らず、武から目をそらし、一戦闘者の気持ちを分からないで、最高指揮官たりうるのか。

どこかの国の前防衛相は「文民統制」に対して中学生以下の見解を示して失笑を買ったが、このご仁に限らずこういう「脳みそお花畑」は巷に溢れている。


都合の悪いことは見たくもないし、聴きたくもない、と。でもね、悪い奴らっていうのは、コチラの都合の悪い時に狙ってくるものなんですね。

あなた一人ならお金出して謝って立ち去って頂くというのも結構ですが、御家族や愛する人が御一緒のときはどうしますか?

特に小さいお子さんにとっては、お父さんは最高に頼れる存在でなくっちゃいけないんですよ。凛として男とはこうである、大人とは・家長とはこうである、と示してあげなきゃ、何を信じて成長して行くんですか?


そういうこと、まじめに考えた事ありますか?

(つづく)