護身・自衛について〜その2
拙ブログを長らくご愛読いただいている方は、「身を全うする」という言葉が頻出することにお気づきの事と思います。これは「身を安全に保つ」ということだけではなく、加えて「自分の役割・職分を全うする」ということで良いかと思います。
だから場合により、自分の身体を張ってでも護るべき者・モノを護る、ということもあり得る。護るためには必ずしも勝つ必要はないし、戦う必要すらないかも知れない。戦うのは、あくまで「身を全うする」ための一手段。
釘を刺しておくと、戦うべき時に戦う能力も気概もない人がこれを言っても言葉遊びですので、勘違いなさいませぬように。念のため♡
身を全うするための能力というと、これは明確な基準が無いゆえ測定が出来ない。場所・攻撃してくる相手の人数・武器の有無・・・といった要因が無限にあるから、測定できないのが当然です。
では、突き・蹴り・抑えなどの武技を稽古する意味も、それらを用いた組手をする意味もないのか。答えから先に言うと「ある!」です。その意味とは端的には「武の理法の体得」です。大雑把にいえば以下のふたつであると、今のところ考えています。
1.武における身法・心法を体得する
2.相手と向き合うという事の何たるかを識る
これらを言葉や知識ではなく、身を以て識る必要がある。そして、対人格闘の強さには、上には上があるということ。それとて条件や状況次第で全く違う結果になり得るという事を理解する。すなわち「有形力の行使」能力それ自体をいくら向上させても、それが必ずしも安心立命につながらないことが分からねばなりません。
そう考えると、身を全うするためには「戦う」だけではなく、「収める・治める」という能力も必要になる。常に刀を抜くことだけが芸ではない。「勝負は鞘の内にあり」という境地。そこに至るには、鞘の内にある刀は斬れねばならないし、刀を持つ者は「斬る」能力と覚悟、そして自己をコントロールする能力が無ければならない。
武道の修行において、心技体の修養はいずれが欠けても成らない所以であります。大風呂敷を広げれば、武道人はつまるところ「真に平和を求める者」にならなきゃイカンと思います。平和というのは、それを求めるだけでは実現できません。「毅然たる対応」が出来ない限り、平和を維持することなどできない。
先般ご招待いただき武を奉納した神田明神の演武会において、道友の不二流体術宗家・大嶋竜太郎先生は「我々の目的は、日本男児ここにありという気概を持つ人材の育成です」と明言されました。
武道場は、キチガイに刃物を渡す場所であってはならないと、自戒する次第です。
太気拳至誠塾栃木支部は、太気拳を学ぶ武術・武道の道場です。武道初心者はもちろんのこと、武術・武道・格闘技で伸び悩んでおられる中級者以上の方も歓迎いたします。また、護身・健身(健康づくり)目的の方の参加もお待ちしております。
<太気拳とは>
中国拳法の流れを汲む武術。創始者・澤井健一が立禅と命名した「ただ立つだけ」の独特の鍛練法を核とする。
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