我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

組手と実戦 〜 その3

せこい稽古をしていると、生き方もせこくなる。いや、生き方がせこいから稽古もせこいのか?ん〜まぁ、どっちでもいいやね。ワシャ、せこい奴とは付き合わないだけだからの(笑)。

実戦、なんていう御大層な言葉をあえて使ったのだけれども、大義というか守るべきものがないのに、戦ったりしてはダメです。

なぜか。以前も書いたと思うし、今後も時々書かせて頂くけれど、戦いに大義がなかったら非情に徹して思いきり戦えないからですよ。

前出の“常在戦場居士”ではないけれど、怪我をして居るからといっても、相手は待ってくれないでしょう。本音のところ、今みたいに機能が低下した状態では戦いたくないんです。でも、男である以上、必要があればヤル。そして、戦う以上は相手が強かろうが弱かろうが負けてはダメ。

そのための“引き出し”、つまり裏技は、私程度でもいくつも持って居ます。もちろん、“検証済み”のヤツね。今の私みたいに身体能力が十分に発揮できない状態でも、十二分に効果があります。これは、弟子だからって簡単には教えない。

“ありとあらゆる”手段で相手を制圧しても、胸を張って「俺は間違っていない」って言うためには、やはり軽はずみな喧嘩はしないことですね。

軽はずみな喧嘩を避けるためには、軽はずみな人間から脱却すること。そのためには、清々しい気持で正々堂々と力と技を戦わせる稽古をするべきです。

正々堂々と立ち合えば、強い人には打たれるでしょう。稽古はそれで良いんです。強い人との差をキチンと感じ取って、「もう一本お願いします」と胸を借りればいい。

稽古は自分の足りない所を明確にし、向上するためのものです。

一方で実戦は、相手を制圧することが第一。自分の足りない所は敵には見せず、ひたすら非情に徹して敵の弱いところを突き、ボコボコにする。

上達や自己の向上が目的なのか、それとも勝負に徹するのか。組手(=稽古)と実戦の違いは、その一点に尽きるのです。