我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

力いっぱい!


先日、ある武道の先生と長時間お話をさせて頂く機会があった。私と同様、武道とは別に本業をお持ちになる傍ら指導をされている由。その精力的な活動についてうかがい、勉強をさせて頂きました。

いろいろとお話を伺ったが、気になったのはその線の細さ。別に武道家だから筋骨隆々でなきゃいけない、ということではないのだが、捕り手系の武術をされる割には前腕・足腰・体幹部の充実が見られない。

どうも指導に重きをおいており、ご自身の身体を掛けた稽古はやや少ないのではなかろうか。年長者相手ということもあり、あまり根掘り葉掘り聞くのは失礼になるので、これは私の勝手な推測になるのだが。

前腕の細さは捕り手では重要な掌や手首を遣い込んでいない証であろうし、あの体幹部や足腰の脆弱さでは、身体を一本にまとめることは難しいだろう。相手が予期せぬ動きをした場合に、相手の力を受けながら微妙に変化して崩すには、体幹と足腰が柔軟かつ強靭でなければ、とてもおぼつかない。

おそらくこの先生、全身全霊の稽古を積まないで高段者になってしまわれたのだろう。技の話をいろいろして下さったが、掛けていただくことは御遠慮させていただいた。

約束稽古で抑えられて、それを吹聴されても業腹であるし、何より太気拳の名を汚すことになるからね。さりとて自然な反応をすれば、こちらから攻撃をしなくても勝手に息切れしてしまうであろうことは、目に見えている。

全身全霊の稽古を積んで居ない者は、力の抜きと入れを動きの中で実践することは出来ない。なぜなら、ぬるい稽古だけをしていると、呼吸力が練れていかないからです。実戦では相手の呼吸を読んで、“技の尽きたる処”を狙うのが常道であるから、ぬるい稽古を専門にして居るということは、一生使い物にならない、ということです。

身体にやさしい、というか、ぬるい稽古で達人になる、とかいうご仁が武道界にはたまに居られるのだが、馬鹿も休み休み言えってんだよな(笑)。
まぁ、身体にやさしい稽古で俺のことぶっ飛ばしてくださるのなら、軍門に下っても良いけどね♪

さて、いつも私の悪態で終わってはアレなんで、立派な先生のお言葉を引用させていただきましょう。


晩年の剣ともなれば、無声という「位どり」が言われますが、我が師は「八〇歳となっても声は出る」と、おっしゃいました。
「格好をつけて、名人ぶって、無声の位だ、何ぞと、自分で思い込んでいては話にならん。若いころから声を出しに出し続け、力を入れに入れ続け、だんだん枯れてきたところにはじめて『位どり』ということがあるのだ」と。
(『剣道日本』 2010年4月号 やまとの伝言)


虚心坦懐、真っ直ぐ力強く、若々しく稽古して行きましょう!