我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

口先三寸


時々、酒席などで議論を吹っ掛けられたり、宗教の話をされたりします。

私は話し好きですが、言葉遊びは大嫌いです。議論を吹っ掛けられても宗教の話をされても、御説拝聴することが多いですが、「ふんふん」とお話を伺いながら、その方を“観察”をさせて頂きます

観察した結果、その方が「知行合一」の方であれば、私からも問い掛け大いに語って頂き、自らの見識を深めたいと思いますし、口先三寸の輩ならトイレにでも行くてふりをしてペロッとはがれます。

その判断基準は“行動”です。精神・認識を直接見ることは出来ませんが、これが見事な人間は所作・行動にそれが顕れるので一目瞭然です。姿勢・表情・目付き・・・などに顕れます。

難しいことでは無い。“いまこの時・この場所・この事”に精神を集中して生きているか否か。単純な善悪とか良否を云々するより、いまの行動になりきって生きているか否か、が問題なのです。

心を集中して取り組んだ事は必ず成し遂げられるものです。才能云々の問題では無い。だから、仕事でも芸事でも何でもいいけれど、行動の蓄積が感じられない奴の話は100%無視します。うなずきはするだろうけれどね。

宗教家ならば、“行”を行って肚を練り上げていない人間、武術家ならば組手で自己の技を検証出来ない人間、こんなヤツらの表情には清々しさが無くどこか嘘臭い。そんな人間の理屈は、100%偽物だと考えて間違いないでしょう。

具体的な行動を通した精神修養の基礎は、昔なら5歳の頃に学ぶことです。その例をひとつ紹介させて頂きます(下記点線内)。
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「お習字は、…唯に技巧にあったわけではなく…複雑なあの運筆を辛抱強く練習致しますことによって、精神力の抑制ということが練り鍛えられるものと思われていたからでございます。精妙な筆のあやには心の糸の乱れや不注意はおおうべくもなく表れますので、一点一画にも心を落ち着けて正確に筆を運ばなければなりません。このように、心をこめて筆を運ぶことを通して、私共子供は心を制御することを学んだのでございます」(『武士の娘』杉本鉞子

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上記は著者の5〜6歳頃の逸話です。これは戸塚宏先生の関連サイトで見つけたものですが、大の大人でもかくや、という精神集中を子供ですらなし得る、ということです。

我々大人が立禅を組み、這を行ずる際には、せめてこの程度の精神集中は最低ラインとして行いたいですね。そんな気持ちで3年稽古すれば、初段くらいにはなるかも知れません

それ以下の人間は、武術を語らない方が良いでしょう。あ、すみません。最近、そんな低度の御仁に武術を語られちゃったんで、すこし腹が立って居るんです・・・。