野性と理性
太気拳の立禅・這・練、そして推手を稽古して行くと、手の感覚やバランス、腰の備えといったものが生まれてくる。それらが戦いの際に、必要なセンス・カンに繋がる。“行くべき処”と“行ってはいけない処”を身体が自然に選択するようになって来ます。
土曜の大阪支部の稽古前における小島支部長との“遣り取り”でそのことを感じました。私は柔道やレスリングの本格的な稽古をしたことはないのですが、推手で培う手の感覚やバランス、腰の重さといったものは確かに組打ちになった際にも活きる、と実感しました。
同時に、やはり「餅は餅屋」であるということも分かりました。“引き込み”に付き合わないことはある程度出来ましたが、「これ以上入ったら極められる」ということが肌で分かり、“切る”ことに専念せざるを得ないシーンが多々ありました。
当たり前ですが「カン」や「センス」だけでは専門家の壁を崩せない。崩そうと思ったら、研究し分析して、そして稽古せねば駄目ですね。
飲み会の後、宿で高専柔道の寝技を少し披露してもらいましたが、想像も出来ないような極め方の多彩なバリエーションには驚きました。これは、いくら身体能力やカンが磨かれていても、それだけでは出て来ないだろうな、と感じました。
打撃にも同じことは言えます。奥の深いものを極めるには、ヒラメキだけでも理論的追求だけでも、ましてや単なる根性稽古では絶対不可能です。野性と理性の双方の融合が不可欠なのでしょう。