我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

異国の地にて 〜私にとっての武道〜

昨年の海外長期出張の間の話をすこし。

仕事の話はさておき休日であるが、とにかく娯楽が無い国だったのには参った。日課の朝稽古は続けていたが、日が高くなって外で稽古するといい見世物になるだけでは無く現地人に露骨に稽古の邪魔をされることになる。

そんなわけで休みと言うと、朝稽古を終えたら街を歩き、疲れたらカフェで読書という日々であった。孤独の中で自分というものを見つめ直すいい機会にはなったと思う。

私はどちらかと言うと「からだ人間」で、昔から頭でひねり出した合理性やロジック、そして正義や道徳というものがしっくりと来ない性質である。

脊髄反射で欲望の赴くままに生きているのかと言うと、そうでもない。物事の成り立ちや仕組みについて考えるのは嫌いでは無いし、本もよく読む方だろうと思う。

ただ、物事を考える時に“本能”や“魂”が示す方向性から外れるような、著しく不自然な概念に対して反発を覚えるということみたいだ。例えば男女同権、ジェンダーフリー体罰禁止、グローバリズム自虐史観、国際人・・・などなど、枚挙にいとまが無い。

便利さや豊かさそして正しさでさえ、あまり追い求め過ぎるとなると、生き物としての本能を無視した不自然な方向性に流れて行ってしまう。

本能という視点で見てみると、最近は男らしい男っていうのが本当に減ったということを痛感する。大義のためには(時と場合によって)損が出来て体を張れるというのが、男というものです。これは単なる私の好みではなく、生き物として考えた場合、至極当然な話なのである。

昔の人は偉い事を云った。曰く「雌鶏うたえば家滅ぶ」。女性の社会進出は結構。だが、大義のために身体を張れる女性がどれだけいますか?ということだ(居ない、とは言わない。誤解無きよう)。

もっと言えば、男女問わず、戦えない人が上に立って声高に叫んで良いのですか?ということでもある。どういうわけだか最近では、戦えないから机上の計算の世界に進んだというような人間が上に立つ。これでは、まとまるものもまとまらない。いざと言う時に逃げ出す輩だからね。

私自身は現代の企業社会で大して出世できる人間では無いだろう。しかしながら、自分の部下(は居ないが)や後輩を見捨てて逃げる人間にはならない、時には笑って損をしよう、と考えている。

どうせ、命を取られたり生活を脅かされたりするわけではない。もし仮にそんなことが起こた時には迷わずに戦い、勝てなくても必ず相手に一太刀浴びせる。

そんな覚悟を決めて居れば、堂々と臆さずに生きて行けるだろう。武士は喰わねど高楊枝、というが、損をしても堂々としていればいい。

やせ我慢でも居住まいを正して堂々として居れば、心も充実してくる。そうすれば自然に明るい気を発する存在になるであろうし、生活も潤ってくるだろう。

そのためにはやはり強くなければならない。常に剣を磨き、鞘の内の威徳を備えておく。それが私にとっての武道の存在意義である。

「男は強くなければいけない。強ければ正しい。そしてその姿は美しい。これを三事(みごと)という」(太気至誠拳法宗師・澤井健一先生)

三事を求め、またそれを伝えて行くのが私のライフワークであると異国の地で改めて感じた次第。