我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

生命の実感

ワンコ達の寝技スパー


私の住んでいる小山市は、外国人労働者がどんどんと増えているとかで、ご近所の工場なんかがTV番組に取り上げられていました。

色々と良し悪しはあるんでしょうが、現場系といわれる業種に従事する人達が多いようです。年率10%くらいの勢いで外国人労働者が増えているそうです。危惧するのは、このまま行くと具体的に実をなす仕事が出来る日本人は少なくなって行ってしまうのではないか、ということです。

私自身も事務系の仕事に従事しているのですが、本当のところ現場と事務を半々程度でやれれば一番いいのに、と思ったりもしています。まぁ、工場で現場に非常に近いところに居て現場と行き来がある仕事なのが、救いと言えば救いです。毎朝安全靴履くと、何だか安心しますよ。女子供の職場ではないんだ、ってね。

脳がどんどんと肥大化し、テクニカルな部分だけが強調されて行くと、生きている実感が無くなって来ます。時々、東大だか京大を卒業してビジネスマンになったのに、山奥に引っ込んで林業やら木工職人やらやっている人居るじゃないですか。気持ちは分かりますよ、私も。手先の器用さが足りないから、私には無理だと思いますけど。

私が太気拳などの武術や格闘技に取組む裏側には、「生命を実感するために本能が求める行為」という意味合いも、あると感じます。やはり日常生活は、社会機構の役割というものを演じる自分、というのが大部分を占めますから、無意識下で本能をかなり抑圧して生きていると思います。

社会生活を円滑に運ぶためには、本能が(コイツは人間性もオスとしての力も判断力も、俺よりずっと下だ)と判断する人間にも、従わねばならない事が時としてあります。それはそれで人間修行の一形態でしょうが、度が過ぎるとストレスです。

稽古を通して等身大の自分を見つめ直し、生命を実感する時間を持てるということが、私にとっての幸せです。組手で相手の攻撃を外して危機を脱した瞬間、自分の生命力の躍動を実感します。

また、一歩進んで、自分の力を引き出すために相手と鎬を削るのだ、と心得れば推手も組手も意義深いものになると思います。

生きるために行うはずの仕事ですらが、ともすると抽象的に傾きすぎる昨今、武術に限らず実感を伴った深みのある身体活動を持つことが、充実した日々を送る秘訣になるのではないだろうか・・・。