我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

哲学

今朝はとにかく寒かった。昨日降った雪が稽古場に積もり、湯気を立てている中、太気拳の朝稽古を行う。こんな厳寒の中でも、禅を組んでいると身体が温まり、それが指先まで及ぶ。稽古を終えて、仕事に向かう。

家内はMさん宅へ愛犬・福の朝食係をしに出掛ける。職場までの道のりは1キロちょいだが、ところどころ凍結しており、いつもより歩みに気を使う。怖い。

明治・大正・昭和の剣道界において内藤高治先生とともに「西の内藤、東の高野」と並び称された剣聖・高野佐三郎先生は、少年時代より道場に豆を撒いて稽古をされ、老齢になってからも下駄で氷の上を歩いて体勢を崩されなかった、と聞く。

気骨が、違う。本当に豆を撒いたかは知らぬが、少なくともそう伝えられても皆が納得するような技量をお持ちだったのだろう。

高野先生はともかく、私も少年時代から色々な先輩や先生方の修行時代の鍛錬の逸話を聞いて育った。現代人であるそれらの方々と比べても、自分など、まだまだ本当に甘い。

どなたであったか失念したが、こんなことを言われた方がいる。「具体的身体操作は目に見えるが、それを支える哲学は見えない」

澤井先生を我々は存じ上げない。しかし、太気拳を名乗る以上、高木先生を通して技術のみならず、その“武の哲学”をも学んで行かねば、と心に誓った次第です。

世に数多(あまた)居る“身体操作評論家”になるつもりは、さらさら無いんで。