我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

稽古の本質(鉄)

12月22日(金)は休暇を取って、西荻窪の「音や金時」に太気拳の同門である土井啓輔氏の尺八ライブを聴きに行った。

土井氏にはのすけ。と娘を教えて頂いている。

尺八とアコースティックギター、ベースの共演、それから昔話の語り部さんとの共演をたっぷり楽しんだ。

竹を繰り抜いて孔を空けただけの単純な楽器なのだが、その音色は高音と低音、掠れた音と澄んだ音が同居しており、なかなか味がある。

しかも音を出すこと自体がやたら難しく、娘など時に半泣きで稽古している。それだけに完成すると人が絶対に真似できないものが仕上がるようである。

ライブ終了後、身内で土井氏の誕生日を三日前倒しで行うとの事で、こちらにも参加させて頂き、さらに場所を阿佐ヶ谷の居酒屋に移して午前3時まで歓談の時を過ごす。

土井さんの生徒さんや共演の方々がおられるにも拘わらず、話題の7割以上は格技・武道に関することになってしまう。

中でも、翌23日に行われる忘年組手に備えて、極真会の二段と手合わせしてボコボコにされた話しには笑った。

土井さんは大の格闘技好きなのだ。

話題を音楽の方に戻さないと周囲に悪いと思い、尺八のお話に戻していただく。

土井さんの尺八の稽古への取り組みをうかがった際に面白いお話を聞いた。

「僕は、ただ先生に習ったことをそのまま伝えているだけです。稽古とはそういうもので、自分を出しては駄目なんです」

「ライブでやる時は色々と遊び心でやります。楽しいですよ。自分の感性に従ってやりますから。でもね、稽古では何も工夫なんかしませんよ」

これをこのまま太気拳の稽古に当てはめて読んでも良い。

稽古とは古事記の序第一段にある「稽古照今」から来ている。

師匠と弟子は別の人間であるから、体型も体力も思考も嗜好も異なる。
同じ人間であっても年代やその生活環境で異なった内面が形成される。

よって、戦いの表現である組手に関しては、師と弟子が同じである必要は無い。しかし、基本稽古のあり方は師に伝えられた本質を変えてはならない。

音楽であれ拳法であれ、稽古の本質は一緒なのだと思う

個人の“工夫”など、天才達が何代もかけて創り上げてきた伝統の本質の足元にも及ばないと知るべきである。

試行錯誤すべきは、いかに基本の本質に到達するかという方法論であって、基本そのものではない。

蛸壺を如何に磨き上げたとて、満足するのは自分だけであり、大海から眺めてみればいかにツマラン事をやっているか気づくはずである。