我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

本質を観る〜日馬富士暴行事件に思うこと

貴ノ岩に対する横綱日馬富士の暴行問題で世間が喧しい。色々と人間関係の力学やそれにまつわるゴシップが連日世間をにぎわせているが、私にとってはそこは些細なこと。真相がどうであれ、これは日馬富士貴ノ岩の個人の問題ではないし、大相撲の体質「だけ」の問題では無いように思う。
この問題の本質を捉えて、対応するリーダーのありや無しや、そこが気がかりである。

〜国技として〜
まず大相撲が国技であるというのなら、国技の定義をきちんと理念化せねばなるまい。国技である以上、技の一つ一つが日本人の叡智や美学の表現である。いわば日本の文化遺産文化遺産である以上、それを行ずる者はテクニカルな側面だけではなく、精神をも体現することを目指さねばならない。
モンゴル人を筆頭とする外人力士に、それがあるのか?大横綱たる白鵬の土俵態度を観れば、その答えは言わずもがな、である。勝負が決した後の「ダメ押し」はもはや常態化しており、頂点に対する横綱が毎場所それを繰り返す。

ちなみに日本相撲協会の使命には
「太古より五穀豊穣を祈り執り行われた神事(祭事)を起源とし、我が国固有の国技である相撲道の伝統と秩序を維持し継承発展させる」ことが挙げられているが、三人いるモンゴル人横綱の誰がそれを体現しているのか教えてほしいものである。
まともな師匠なら、武徳が無いものに術を教えるなどあり得ないのだが、協会の面々は「キチガイに刃物」という言葉を御存知ないのか、聴いてみたいものだ。

相撲の話題に限って言えば、まともな大相撲にするためには、外人の入門はこれ以上、受け入れない。もしくは厳しい人数制限をすることが絶対条件だろう。同じことは、日本社会にも言える。

〜日本社会の問題として捉える〜
外国人力士がこれだけ増えると、一つの有力な派閥が出来る。そしてそれは派閥としての主張を押し立てることにつながる。かつての高見山のように日本人社会で単身頑張っている、という状況であれば問題は無い。郷に入れば郷に従え、ということわざ通り日本人社会に溶け込もうと努力するであろう。しかしこれだけ外国人力士が増え、そして彼らがその恵まれた身体に加えて日本人の叡智たる相撲技を身につけて土俵を席巻するとなれば、強力な発言権を得て言いたい事を言い、やりたいように振舞うのは必至となる。モンゴル人力士会のような集まりが出来れば、そこに人間関係の複雑な力学が生まれる。大体、普段酒を酌み交わす仲間と番付=生活にかかわる真剣勝負が出来るのか?という疑問は自然にわいてくるだろう。相撲界と同じことが、アタリマエであるが我々の社会にも起きる。
外国人参政権生活保護、宗教、特定業界に利する政治家の出自をつぶさに調べれば、自明のことであろう。外国人を排斥せよ、という話ではなく日本の社会を外国人に食い物にさせるな、という話だ。

日馬富士がどうした、貴ノ岩が何を言った、貴ノ花親方と協会の確執がどーだ・・・そんなことはある意味瑣末な問題である。我々はゴシップを面白がったり憤慨するだけではなく、問題の本質を見つめねばならないと思う。