我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

しなやかな強さ

雀鬼会主宰・桜井章一会長の新刊を紹介したのだが、オビにある「強い人は美しくしなやかである。それはカラダまでも」という言葉に、私はグッと来る。

日誌URL:http://d.hatena.ne.jp/superbody/20120604/1338824889


桜井会長の希求する強さは、循環する強さであり、それは偏った一方方向的なものでは無い。


一方方向的な偏りとは、世に言うオタクなどがそうだろう。あることに固執するあまりに、それ以外の事柄や価値観に目をそむける。心にシャッターを下ろした状態だ。

溺れる、と言い換えてもいい。溺れることと熱中することは似ているようでも違う。

こだわるあまりに、正常な神経を保てなくなった状態が、溺れるであり、そんな状態は少なくとも「強さ」とは程遠いものである。


したがって、私も武には溺れない。己を全うするための武であり、武に溺れて己を失う=強さから遠ざかるのは、本末転倒だろう。

キチンと生活出来なかったり、金にだらしなかったり、女子供といった弱者を踏みにじったり、そういうことをやっているようではいくら技術や肉体を磨いても強いとは言えないだろ。

まして弟子相手に寸借詐欺やっていたようなセンセイが、いくらクチで「俺の武術研究は日本一」なんてのたまっても、「それが何か?」ってなもんだよな。ちなみに、この男は実在する!


俺は武術が強いんだ、なんて胸を張ってみても、その程度のヤツは、大抵、おでこを一押ししたら引っ繰り返るもんなんだって♪

拘るあまりに心身のバランスが崩れて中心が充実していないんだから、一突きだよ。アタリマエじゃん(笑)。


しかるに熱中している状態は、カラダが開いて氣が四方八方に広がっている状態。これは心身が統一された統一体なんだから、上述の心が奪われたような状態とは似て非なるものだ。

心と体を素直な柔らかい状態にしておけば、とてつもない強さとなって現れることがある。

我々武術・武道にいそしむものは、その違いを知らなければならない。