我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

ヘーゲルと直心影流

「自由とは必然性の洞察である」と説いたのは、ドイツのヘーゲルと言うえらい哲学の先生だそうな。

また、直心影流剣術の教えには「後来習態の容形を除き、本来清明の恒体に復するにあり」という極意がある。

両方とも若い時分に聞いた言葉であるが、まったく同じことを東洋の島国の武辺者と西洋の大哲学者が言っていたことを思うと、驚きを禁じ得ない。

最近、“自由組手”について考えている中でふと心に浮かんだ言葉である。

自由とは、若者にありがちな斜に構えて無頼を気取る態度でも、コロコロと移り変わる気持ちや感性を土台にした勝手な振る舞いでもない。

そういう自由は若い時分にずいぶんと満喫させていただいたので、もうイイや(笑)。

私にとっての“自由”組手は戦いにおける必然性の洞察となり得ているだろうか?

単に闘争心を満たすだけの殴り合いでは“組手慣れ”は身につくであろうが、“強くなる”には遠回りでしかない。

強くなるっていうのは、本郷剛が仮面ライダーになることだ。本郷剛のままだったら、筋力が向上したり動きが早くなっても、倒せるのはショッカー程度だろ?

仮面ライダーになるとは、本郷剛という謂わば自分の殻(本来習形の容態)を脱ぎ捨て、本来清明の恒体に復する、すなわち真の自由・個性を悟ることなのであろう。

そんな自由の境地に、武の道を歩くことで到達できれば、もう言うことはない。