我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

学び - その2

無事、4月の最終稽古会が終了しました。今回の稽古は基礎練体よりも“打ち”に重点を置いて行い、最後は全員参加の組手で締めました。

以前に書いたとおり、私が見る水曜日の稽古会としては、これがラストとなります(なりました)。今後は私が小山に戻れるまで、週末集中型の進め方になります。

さて、今日のお題。

先日のブログで、「個人の資質」について触れました。個性とか独自性とか言われるものですね。太気拳は「自分の器」をつくることが大事である、と故澤井健一宗師も語っておられます。

太気拳は有形無形の拳であるとも言われ、他の武術ほど外見の形にこだわることがなく、自然に体の内側から出てくるものを汲み取って行くかのような稽古体系にも思えます。

じゃあ、自分の思う通りにやったらいいじゃん!・・・とはならないんですね。再度、澤井宗師にご登場いただきましょう。先師は“無形の拳”という言い方をされる一方で、こんな言葉も遺しておられます。


「私の師匠は、形に非常に厳しい、徹底して基本の形を稽古させられる
(『拳聖 澤井健一先生』)


しかも、その稽古たるやひたすらじっと立ったり、ゆっくり歩いたり。かと思えば、なにやら両手をぐるぐると廻してみたりと、およそ武術とは思えぬものだったわけで。

今でこそ、太極拳に代表される慢練(ユッタリズム)や站椿功などは多少認知されるようになって来てはいますが、当時は日本ではこんなこと誰も知らなかった稽古であったはず。

そんな状況下で澤井先生は、「王郷斎先生や兄弟子たちも立禅を続けているのだから、それを私がしないという訳にはいかなかった」(同書より引用)と虚心坦懐に師の示す稽古に打ち込んで行った。

我々が立禅・這に取り組むよりも、さらに厳しい状況下で純粋に稽古に没入出来た澤井健一という先達の凄さを、我々はもっと認識せねばならない。

まず自分、ではない。自分が取り組む対象に理屈抜きに自分を合わせて行く。自分のちゃちな工夫など、先人たちはすでに乗り越えているものと知らねばならない。

まずはそう言う前提で取り組まねば、武も文も学も楽も・・・、その姿を見せてはくれない。