我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

妙不伝 - 2

エチオピア流珈琲道



学生時代から感じていたのですが、稽古を一緒にやる上で困っちゃうタイプが居ます。それは・・・不幸にも受験勉強をやり過ぎちゃった御仁です。

なぜか??受験勉強にどっぷり浸かった人間は、実感が無いのに理解できる、という離れ業を得意としているからなのであります。勉強して理解する、というのは人間だけに許された特殊能力なのですが、身体の分野でこれをあまりやられると、どんどん真理から遠ざかって行く。

感性が鈍くなるのです。

娘の使っている(いた?)教材で夏休みの自由研究に関する参考書があるのだが、そこには研究課題だけではなく、このような手順でこう言う実験をやると、○×な結果が出る。理由はこうだ・・・、ということをズラズラと解説してあったな。いったいどこが「自由」な「研究」なんだろ(笑)。

脳をまともに発達させるためには、出来る限り、体験・体感を通して覚えて行くことが大事ではないでしょうか?特に稽古事の世界はそうです。

もちろん、“理(ことわり)”を知ることは非常に大切なのですが、それを身体を通して考究し体現して行く事にこそ、価値がある。受験勉強的に「分かった」としてもあまり意味はない。

とにかく色々なことを聞きたがる人は、一度自分に問うてみると良い。「今、それを知ったからとて、何になるのだろうか。知る必要があるのだろうか」と。

これをやったらどうなりますか、とは聞くな。教わったことを教わった通りにやりましたが、こう言う疑問が湧きました。これでよろしいでしょうか、なら分かる。

問題と答えを与えられて、それを覚え、諳んじてみせる能力が評価されるのがお勉強の世界であるが、リアルな社会では「問題そのものを見つけ出し、解く能力」が必要となります。

武術の世界も同様。そこが稽古の“妙”であり、これを言葉のみで正確に“伝える”ことは不可能とも言えるほどの困難を伴う。

素直に稽古に向かい合い、課題となっている動きの示唆するところを真剣に読み解き、それを納得するまで身体を掛けて稽古し、自家薬籠中の物にする。“百錬自得”であります。

それが出来ない人間に“妙”を得ることは夢のまた夢なのです。俺なんか身体掛けて稽古しているのに、まだまだ得られていないもんな(苦笑)

【今日の一枚】
エチオピアのコーヒーミル「ザナザナ」でエチオピアコーヒーを挽いている私。佐野市の珈琲音(かひあん)にて