我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

技に走るな


昨日6月10日(水)は小山の塾生第壱号のM君が入門した日でした。稽古会にやって来たM君「今日でちょうど入門2年なんです」と一言。この2年間、とにかくほとんど休まず稽古に来てくれています。

太気拳の動きが少しずつ身に付き始め、楽しくて仕方ない時期かも知れません。ちなみに私は今でも稽古・鍛練が楽しくて仕方ない。

稽古会の内容ですが、歩法と手の「人(じん)」による前方の制し方・つぶし方、その護身的用法と推手での「人」の確認作業を行いました。推手を独立したひとつの競技として試合化しているところもあるようですが、推手を目的にした途端、似て非なるものになるように思います。

推手はあくまで手段。もちろん、組手もしかり。それぞれの意味があって手段として存在する稽古方法であり、それ以上でも以下でもない。手段であるからには、勝負にこだわらず正道を追求することだ。

武術・武道を技の攻防という観点で語る人が多いけれど、いつも書いている通り、私にとってはこう来たらこう返すといった個々の攻防技術論は、ハッキリ言ってあまり興味が無い話題だ。

それより状況に変化し正しくコントロール出来る感性のほうがより重要である。私にとって武道の稽古はそうした感性を磨くためのものであり、さらに言えば、「義」や「誠」を貫くためのもの。

現代社会において武道は社会体育的なウェイトが大きくなっている。私自身もそうした面を含めて太気拳を通じて武道の魅力を伝えて行きたいと考えている。ただ、武術面を中心に追求するのであれば、一朝事あって刀を抜けば(相手が強かろうが弱かろうが)必ず一太刀浴びせる気概で修練するべきだろう。

私も已むにやまれぬ場面では心ならずも拳を振るったこともある。戦わずに場を治めるだけの器量=鞘の内の威徳を持つべく修練に励むのは当然であるのだが、これとて抜いたならば斬る実力あってのことだ。

武力を修練する者として、心掛けていることはある。

決して寡黙な人間ではないが、どうでもいいところでつまらない自己主張はせず、引くべきところでは引く。自分に非があれば即座に詫びを入れる。多少のことでは怒らないし、時には怒っても相手には逃げ道を与える。

理不尽に接してもヘラヘラしていることもあるのだが、それを見た知人には「そこまで我慢することないのに」「もっと自分を出せば良いのに」と言われる。だが、普段の私はこれでいいのだ。

自分に非があるのにキレていたら、武術家として刀を抜く場面で「迷い」が出る。迷いがあっては本気で斬れず、不覚を取ることになる。それでは武術家として身を全うすることはできない。

私にとってやるかやらないかは、必然性の在りや無しやによる。論争一つとってもそうである。だからディベートとかいうものが、嫌いだ。自分が心から信じていないことを主張して論理構成の的確さを主張し合うゲームなど、絶対に出来ない。必然性が無いからね。

もし部分的にでも相手の考え方が優れていれば、それを学ばせてもらえば良いだけの話だ。で、自分が正しいのなら正しいで「みんなはそう言うけれどワシャこう思うよ。こうするよ」と言って黙々ととやれば良いんじゃないの。

「論破」「説得」しに来るやつとは話したくない。俺は説得はされても納得はしないよ、とそういう輩には伝える。すなわち口ではワシャ動かん。私を動かしたければ「論理」では無く、「情」と「意気」を持って来い。そこに「誠」の裏付けがあれば、私は動く。

冒頭のM君だが、少なくとも彼は「情」と「意気」と「誠」は持っている。もっともそれは彼だけでは無い。現在小山支部に稽古に来てくれる人達は、皆さん同じ心をお持ちであり、いつも感謝している次第である。

多々画策して出世を急ぐやつ、技に走るヤツで最終的に大輪の花を咲かせる人間は、いない。だってその手の輩は「天を畏れる」ことを知らないゆえ、天に唾してしまうからね。大輪の花を咲かせるには、天の助けが必要だよ。

私は今までも、そしてこれからも「誠のこころ」と「人生、意気に感ず」で行く。拳法の稽古もしかり。倦まず弛まずじっくりと自分と向き合い根っこを張るつもりだ。