我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

打たれ上手

昨年末の忘年組手のDVDを観た。海外出張中だったため自分の組手が無かったのが残念だったが、小山支部の塾生各位の組手映像をじっくりと拝見。

各人課題はあるが、全体的には良い感じで稽古出来ていたと感心しました。

8日の日曜稽古会では思うところがあり、M君とだけですが、やや長めの組手を2回行いました。お互いに勉強になるように、攻め方や拍子を色々と変えて動きました。

質の高い組手稽古を行うのは、なかなか難しいです。ただ勝てばよいというものではないし、気前よく打たれれば良いというわけでもない。技術・力・速さだけでは無く、気持の問題も含めた総合的なものですから。

話は剣道に飛びます。月刊誌の『剣道時代』3月号で千葉の岩立三郎範士が「打たれ上手な人ほど上達が早い」と述べておられました。いつも高木塾長に伺っている話と全く同じ趣旨でした。紹介させていただきます(以下、引用)

わたしは打たれ上手な人ほど上達がはやいと考えています。(中略)…つまり理合にのっとって攻め合い、打たれる条件がそろったときに素直に打たれているのです。これは裏を返せばどうしたら打てるのかを体に蓄積していることになるのです。

(以上、引用終わり)

剣道は競技を採用しながら、競技に染まりきらないで武の命脈を保ち続けている武道の代表格であると聞いていますが、これには「目利き」が出来る師範が多数居られることが大きいでしょう。

目利きが出来なければ、ルールに反しなければ「なんでもあり」となってしまい、奨励の手段としての試合が目的になってしまいます。スポーツ競技と明確に定義するならそれで良いし、また、そうでなければいけないでしょう。

しかし、武術・武道を謳うのなら違う、ということです。スポーツとどちらが上、ということではなく、土俵が異なる、ということです。

巷では「見える化」礼賛の様相が色濃いですが、“目利き”や“行間を読む”というのが武術・武道の文化であると思います。

前述の「打たれる」ということ一つ取っても、ダメな打たれ方と成長に繋がる打たれ方があるわけで、それは“トーシロー”には見分けづらい世界です。

私は推手も組手も「中心を攻めろ」という塾長の言葉を追求して来ました。塾長に真っ向を割られた回数はだけは人後に落ちないでしょう。

ただ、八百長だけはしないように、毎回毎回、言葉は悪いですが「ぶっ飛ばす」つもりで立ち向かい、返り討ちに遭って来ました。

おかげで「どうしたら打てるのか」の蓄積が身体に刻み込まれているぜ!と大威張りで言いたいところですが、こればっかりはワカリマセン。

でもまぁ、身体に刻み込まれた感覚だけは、どんどん支部の会員さんに伝えて行きたいと思っています。