我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

カラスになりなさい


気分についてのお話。


あるとき舞踏家の故大野一雄先生が弟子に「カラスになりなさい」と指示したそうな。

お弟子さんはトライしたがダメ出しを喰らい続ける。

大野先生曰く「君はカラスになろうと努力しているけれど、カラスはカラスになろうとなんかしないんだよ」

なろうとする“作為”を大野先生は嫌ったのだろう。カラスになろうとする事と、カラスになっている状態の間には大きな隔たりがある。


翻って太気拳の話です。意拳で言われる意念、すなわち「大木を抱いたつもりで」「木を引っこ抜くつもりで」というのは、武術としてはすでに遅いということにならないか。

「大木を抱け」「木を引っこ抜け」が正しいのではないか。これがきっとどこかで“つもり”だとか“ような”になっちゃったのだろう。

“つもり”ではその立禅や練りに中身が出来ない。これはアタマでこさえあげた“妄念”ですから。

禅や練りに中身があれば、武的な力が出るはずである。“つもり”“ような”では武的な力は引き出せまい。


澤井先生は「太気拳は気と気分だけの拳法である」と喝破されたが、気分が入るということは、心身が整っているという事。心身の状態と密接な関わりがある。

引っこ抜きなさい、と言われて引っこ抜ける“気分”になるには心身が出来ていなければならない。

実際に出来るかどうかは別にして、出来る!と実感出来るような気分は、本当に力が漲らねば湧いてこない。


おそらく、ではあるが澤井先生が王先生に受けていた指導は「站椿の時は大木を抱きなさい」であって、「抱いたつもりで」ではなかったであろう。


高木先生が「山手線の電車を止められるっていう気持ちになるんだよな」と言われるのを何度となく聞いた。それは立禅により心身が統一されて、そのような力感が湧き上がってきた、ということ。

決して“つもり”なんかではない。


なんでそんな事言いきるのかって?それは私もダンプカーくらいは何度も引っ繰り返しているからですよ。

・・・気分の上では、ね。