我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

説明してもわからない

家内が村上春樹さんの小説『1Q84』にある「説明しなくてはわからないということは、説明してもわからないということだ」という一節を紹介してくれた。


オマエのことじゃん、と言おうと思ったら、自ら「私がそうなんだけれどね・・・。反省だわ」と珍しく反省モード。よくわかっているじゃないか♪


先日の稽古会の後、ロバートと館長ことIさん(以下、館長)が拙宅に泊まった際の事。


組手に関する話の中で「僕は型稽古主体の武術で育ったので、打ち合いは怖い」と口にした。

【型稽古主体の武術】の名誉のために申し上げれば、型は稽古の仕方次第であり、武術の真髄に至ろうとすれば、型は避けて通れない。大体、太気拳の立禅や這だって型稽古でしょ。

まー武術における型稽古論は別の機会に譲るとして。


館長や私がロバートに伝えたのは、

1.怖がることは悪いことではない。危険度に応じて怖がれば良い
2.感じた怖さに応じて動け
3.自力で問題を解決しなければ、なんていう思い込みを捨てろ

・・・えーと後は何だったかな。そうだ、そうだ。本当に危険かどうかなんてどうしたら分かるんだ、なんて外人みたいなことを聞くから、稽古して内実が練り上がれば、虚実は判るもんだ、と答えたかな。


それを練り上げる手段が立禅・這・練・・・なわけで。


なぜだか具体的に説明しろ、と言われれば出来ますヨ。でも、世間には知識=習得と考える御仁や重箱の隅をつつく揚げ足取り大好きな方が多いので、説明は割愛いたします。

もちろんロバート君には、その質問のうまさと日本までやって来て太気拳を稽古する熱意に敬意を表し、館長とツープラトンで説明しましたよ。ただし、こうも付け加えました。


「あのな、俺(島村)は太気拳始める時点で20年、格技のキャリアがあったわけよ。太気を始めた時点で、いったんすべてを棚上げして毎日基本練習ばっかりやって、一年以上、組手の力は落ち続けた」

「でもな、ある日手足腰が練でやる通りつながって、それからは棚上げしたものが利息付きで還って来たよ」

「何年も以前の流派が抜けない、という人がいるけれど、全てを棚上げして太気拳を信じるしかない。たかだか1〜2年のことだけど、それが出来ない人間が多い」


達人のエピソードが大好きな人は多いので、太気拳の稽古生なら、柔道剣道に熟達した澤井先生が王向斎先生に説明もなく立禅ばかりの修業をさせられた話は、皆さん、知っている。

でも、いざ自分の事になったら「俺は空手○段だから」「○×道の指導員だから」などと言って“今の自分”の殻に閉じこもっている人多いんじゃないの?


まずは先生の言った通り稽古すれば良い。そのうえで疑問を感じることを聞けばいいジャン。

そして先生の回答に反論したり、していない?回答を頂いたら、それを心こめて稽古しなさいって。回答の説明を求めるのなら、稽古して来い。


ウチにはそういう失礼な人間居ないけれど、以前、俺よりずっと怖い高木先生に反論する御仁がいたこと思い出して、ちょいと書いてみました。


こういうの、自殺志願者っつぅんだよな。いや、【IQ84】かな(笑)。