我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

ドヤ顔

ある踊りのワークショップを覗いて驚いた。

外部講師で招聘した海外の先生が見本を示すのだが、参加者の95%はまったくちがうことをやっている。


別に難しい動きを行ったわけではない。門外漢の私でもその場で出来るような表現をやったわけだが、ほとんどの参加者は、自分が過去にやった動きを勝手に当てはめてやっている。

参加者はアマチュアだけではない。むしろ、自分で教室を持っているプロの方が多いくらいだ。自らのブラッシュアップの為に海外から有名講師を招聘しても、思い思いの事をやっていて、何の意味があるのだろうか??


講師が苛立っているのが手に取るようにわかる。なんなんだ、こいつら??先日お越しいただいた響先生なら、膝蹴り入れられているな・・・。


WSの主宰者が通訳をしていたが、これがまた酷い!


講師が「このように上肢を動かした時のフィーリングが大事なんだ」というような意味のコメントをしたのだが、それを、「感情が大事なんだ」と訳す。

そしてそれを聞いた参加者が、「うんうん」とうなずき、自己陶酔しきった“ドヤ顔”で間違った動きを繰り返す。


感情?感情ですか?貴方の個人的な感情なんか、客は観たくねえよ。講師がいうフィーリングは文脈からすると、たぶん筋感覚とでも言うべきものだ。

主宰者は英語も駄目だが、踊りも“ブー”じゃないのかね?観たことはないけれど。

踊りに作った感情やましてドヤ顔なんかいらないだろ。振付師の意識の形を体で表現できれば、自らの意識はそれにともなって湧き上がるはずだ。


私が空手道に取り組んでいたころ、親父が昇段審査に立ち合うと必ず言っていた言葉がある。

曰く「顔で空手をやりやがって」

審査で必ず表情を作る人間が居たのだが、それを父はとても嫌っていた。アピールする稽古をやる人物を遠慮会釈なくぶった斬っていたな。

表情を作って空手をやると、かならず一拍遅れる。スピードの速さではなく、間の速さが必ず犠牲になる。当たり前だ。不要な思考を介するのだから、心身の自然な働きから遠ざかる。それは武では無い。


澤井先生は「太気拳は気と気分だけの拳法である」と喝破したが、それを「気持ちよく自分勝手にやればよい」と解釈した時点で、武ではなくなる。

“気分”は心身の働きから生み出されるもので、都合のよい思い込みから生み出されるものではない。


『拳聖』を読むと、若き日の佐藤嘉道先生に澤井先生が気分の重要さを説く話が出てくるが、澤井先生ほどの方が佐藤先生程の方に、都合のよい思い込みの稽古をさせるわけがあるまい。


武も舞もそんなに甘くて浅いものではないと思うけれどね・・・。