我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

懸かる稽古

朝、稽古をたっぷりやって大和号とたっぷり歩いて、昼食を頂く。起床が6時半といつもよりだいぶ遅めだったので、今日はお相撲さん同様、朝食抜き。

で、これまたお相撲さん同様お昼寝タイム。昼寝から覚めて、しばし動きの確認を。やっぱり良く寝ると身体のキレが違うね!


そろそろ良い時間なんで、体をほぐして立禅を組んで剣道に向かうとするか。


剣道の稽古に出る前にも、つとめて立禅を行うことにしている。気を溜めて、攻めて、捨てる(打ち込む)、というのが剣の基本であるが、これは拳でも全く同じだな。


拳法の場合、自分自身が元に立つことが多いので、“懸かる稽古”より“受ける稽古”や“応じる稽古”になってしまいがちだ。

もちろんその中で引き出したり呼吸を読んだりは出来るので、それはそれで良い。下の人との稽古が自分の栄養にならないということではない。

ただ、いつもいつも全面的に自分の気をバーン!とぶつけて行く稽古ばかりだと、下の人、特に私が教える人は、どうしても出て行けなくなったり、萎縮したりしてしまう。

そして、私自身も生徒が萎縮する癖がついてしまって出られないことを、自分の真の実力のように考えてしまうことになりかねない。

不幸にしてそういう勘違いをしまった武道人はどんどん堕ちて行く。負けなくてもよい相手に不覚を取ってしまう。

人は弱いものだから、どうしても自分に都合よい方向に考えてしまうものだ。だからこそ、意識して懸かる稽古を積まねばならない。


誤解を恐れずに言えば、太気拳でも若いのに懸かる稽古をしなくなっちゃった人が時々いるように見受けられる。心当たりがある人は、逃げずに身体を掛けた稽古を致しましょう。


剣道では私はひたすら“懸かる側”。元に立つ先生方に身体を掛けてひたすら打ち込む。そして先生方は竹刀で私の隙を打ってくださる。これは本当にありがたい。武における“気”は懸かる稽古をしてこそ、練りあがる。


しっかり懸かれるように、しっかり立って気を溜めるとするか。