我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

意を汲み取って

日曜稽古会のテーマは、“身法・体構えの急所”の検証と、東京でもやっている“蹴りの受け”を行う。

後者の蹴りの受けについては、既に何度もやっているため、だいぶこなれて来た。前者は最近取り組んでいるのだが、武術として力を発揮するために見落としてはいけないポイントを、普段とは違う角度から見直す稽古。

平塚への単身赴任以降、私が参加する稽古会は週一回となったため、指導がやや“くどく”なってしまっているきらいがある。

稽古会は“修練の場”であるとともに、“伝える場”でもあるので、どうしても言葉と実演を挟まねば、という気持ちになってしまう。


以前、富山の小島支部長と話していたときに高専柔道の話を聞いたことを思い出す(彼は金沢四高の寝技技術を習得している)。

当時のエリートであり年齢が行ってから柔道を始めた旧帝大生が、少年時代から鍛え上げた連中に勝つために寝技に特化した柔道が、高専柔道である。

センス・体力が問われる投げ技に比べ、稽古量と工夫で伸びて行けるのが高専柔道なのだそうな。

私も彼に少々教えを受けたが、知識階級の旧帝大生が工夫し抜いたというだけあって、非常に理にかなった技術であると感じた。この高専柔道をベースに他流試合にも対応できるように組み立てられた彼の組討技術は、かなりの脅威である。

オツム自慢の帝大生の間で伝わった技術ではあるが、四高出身のある指導者によれば、「言葉で伝えられるのは、最大で25%」とのこと。

最大で、とはすなわち帝大生というエリート同士での伝承であっても、ということ。知的な指導者と、知的な教え子・後輩同士で25%ということね。ここは大事だぞ〜。

うちの生徒さんの知的レベルは悪くないだろうが、発信する側の私が帝大生ではないんだから、言葉で伝わるのは20%以下だろうな。

ことわざで、「言(げん)は意を尽くさず、書は言を尽くさず」というのがある。

言葉は、伝えたい気持ちの全て表すことができない。また、文字も言いたいこと全てを書き留めることができない、といった意味なんだが、意を汲み取って頂くしかないやね。

俺が何を伝えたいか、言葉ではなく、意を汲み取ってください。これも、大事な稽古です!