我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

志・歴史・品格 - その2

自分の表芸のなんたるかをする事が、本質的な上達の第一歩である、と書いた。

そんなのどうでも良いんだよ、楽しけりゃ、というひとはご自由に。だけど、こう言っちゃなんだけど楽しい“だけ”で何年も人様ぶっ叩く稽古しているってのは、ちょいと問題あるんではないですか?

色々と問題ありの(ありだった)私にこんな事言われるのもアレですが(笑)。

いやいや私も楽しいんですよ、稽古は。もっと言えば、闘争そのものが楽しい時期がありました。何センチの差で相手の拳脚が流れた瞬間の快感ってば、もう、何とも言えないやね。純粋に楽しい。でも、それだけだったら強さそのものの打ち止めも早いでしょ。せいぜい、7〜8年。頑張って10年。

体術で成人後10年間実力が向上し続ける人間は、なかなか居ない。競技武道であるか否かを問わず、大体30歳くらいでピークが来るんじゃないですか。

そりゃそうだ。そもそも「強さってなんだ」ということに明確に答えられる人間が、あまりに少ないんだから。

武道を稽古するにしても、はじめの1〜2年は単純に「強くなりたい」で良い。でも、「俺が目指す強さってなんだろ?」っていうところが明確に分かっていなかったら迷走するんじゃないですか?だって目指す所が分らない以上、走っていいのか歩くべきなのか分らんでしょ。

ただただ過激な技術を持つことを吹聴したり、武器に異常な興味を持ってみたりという、どうしようもない社会不適格者、居るでしょ。武術の技自体は劇薬だから、自分の目指すものが明確でないと、ヘタすりゃそんな廃人の類になりかねない。

一方で、武の世界を見渡せば、殆ど一生を通じて武的に向上するのみならず、深い人間性をも兼ね備え得た達人たちがいる訳です。

彼らが武の道を歩みきった過程で悟り得た真理・哲理が後世に託され、後に続く者たちがその時代に応じて先人の遺産を継承発展させる。

武とは事に臨んで身を全うする行為であるから、武の向上を目指せば必然的に人間の探究に至る。武で練った肚と行動力を以て探求したことを社会に還元し、人間の関係性を循環させてゆくことが、平時における武道家の存在意義ではないだろうか。

勿論その土台は武術修行なのだけれど、ただ強いのが偉いってのは、金持っているのが偉いという“銭ブタ”と同じ根っこの精神構造で、歴史も真理も人間性もありゃしないやね。

強いのがとにかく偉いのなら、土佐犬やゴリラには礼を尽くせよ。な?だって、例え朝青龍でも素っ裸で土佐闘犬と金網デスマッチやったら殺されますよ。

(つづく)