我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

エンダン - その2


前回の話を総括すると、真の応援とは戦士(選手)とともに戦うことであり、その体現者として存在するのが応援団員である。応援団員は戦士とともに戦うとはいえ、自らは栄光・栄達を求めない。すなわち、彼ら団員の行為はつまるところ、自己犠牲の精神に基づくものである。

お祭り気分で母校のチームを応援することが悪いわけでは無い。気軽な“いっちょ噛み”であったとしても、選手としてはクラスメートをはじめとする母校の応援が嬉しくないはずがない。

しかし、土壇場で死力を尽くす展開になった際に選手を力づけるのは、やはり全身全霊でともに戦ってくれる男たちの存在であろう。

自己犠牲精神の権化たる応援団員として一人前になるには、徹底的に己を殺さねばならないであろう。薄ら甘い現代社会で自然成長的に育った精神に、そのような力はない。では、このような精神を涵養するにはどうするか。

徹底的に人に仕え心身を鍛え抜き、心身打失の修行をすることである。具体的には先輩の理不尽とも思えるシゴキ・ヤキ入れに“押忍の精神”でとことん食らいつくことであろう。くだらん屁理屈・言い訳をこいている自分を潰してもらえ!

もっとも、そのシゴキ・ヤキも根底には後輩を伸ばしてやろうという愛情が無いと単なる暴力・暴行になってしまうのでそこが難しいところではある。しかし、一人前の応援団員になるにはシゴキは不可欠であろう。

昨年よりご厚誼いただいている不二流体術宗家の大嶋師範は、国士舘大学の応援団長だった。宗家は私と同い年。

いまでこそ応援団員も普通の学生になりつつあるが、私の学生時代は“エンダン”という言葉は一種独特の圧力があった。私の母校のエンダンでさえ随分と色々な伝説がある(らしい)。まして“シカンのエンダン”と言えば、黄門さまの印籠のごとき威光があったものだ。

その団長殿よりうかがった話によれば、「1・2年生は虫けら・奴隷。3年が平民で4年が神様。でもね、虫けら・奴隷が一番女性にモテるんですよ」とのこと。理不尽に耐え焼きを入れられ、ナマクラの鉄が鋼にならんとする姿に、佳い女はほろりとするのだとか。

どうやら叩いているトンカチ(4年生)はあまりモテないらしい(笑)。

でも、普通はちがうよな。バカな女は叩く側の男ばかり好きになる。シカンのエンダンともなれば、学生の身分で随分とモノが分かる佳い女が居るところに出掛けている(いた?)んだな(笑)。

叩く側といっても士舘の4年生団員はかつて叩きあげられた鋼鉄のハンマーだから良いけれど、彼らなみに練り上げたやつなんか、世間にはそうは居ない。ナマクラのくせに人を叩く(=ひとの上に立つ)バカが世間には多いやね。

そんなことも分からんバカな女の方が多いもんだから、どうしたって男も安っぽくならぁな。でも心配することはないぞ。気を入れて探せば佳い女は結構いる。イイ女に当たらないのは、君が気付かないだけだ。

信じてついて行ける先輩や師匠に徹底的にくらいついて、自分を鍛え上げてみろ。君が鋼になれば、探さなくったって佳い女が自分から寄って来るから。

おゆとり大学の応援団員諸君も、わかった??明日から頑張れよ!