我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

強さとは - 『富山の常ちゃん』その2


(前回からの続き)
強くなるとは価値観・人生観の転換です。180度変わる、とは行かないまでも進化・深化であると言えば良いでしょうか。一種の悟り、とも言えるでしょう。

悟りというと聖人だけが到達するような、なにかとてつもないことのように聞こえるでしょうが、そんな大げさなものでは無く、いわば「ふっ切れた」状態なのだと考えればいいでしょう。

こういうことって、誰にでも経験あるのではないでしょうか?ふっ切れると、一段高いところから物事を判断し、的確に対応出来るようになるこれが相手と戦う中で出来れば、それは武的な悟りでしょう。

さて、私が見た常ちゃんは、小島さんが書いている通り“超草食系”。おおよそ武術をやるタイプには見えない可愛らしいお兄ちゃんでした。良い子だけれども、どこかオドオドして居てじれったい、そんな絵にかいたような弄られキャラでした。

小島さんに「おい常!組手やるがいか!」と聞かれて泣きそうになり、団さんやら私が「やらないって言え!」と促しても固まるだけ。結局、背中を押してなんとか「や、や、や、やりません!!」と言わせて事なきを得ました。

組手云々以前に、まず日常生活において堂々と振る舞えていないな、と感じるくらいのオドオドぶりで、これは荒療治が必要だなぁ、と他人ごとながら心配になったものです。

でも彼は運が良かったですね。何がって?それは自らが元いじめられっ子から武闘派に転向した経験を持つ小島支部長の門を叩いたことです。

11月の富山合宿で支部長に組手稽古をつけられ、当然ボコボコにされた常ちゃん、泣きながらもくじけずに立ち向かってからというもの、全くの別人と化したのだとか。

思うに、ボコボコにされることできっと「何だ、痛いだけじゃん!」ということに気付いたのでしょう。弱い奴って、アタマで考える痛みが大きすぎて勝手に怖くなってしまう。結果、前に出られないっちゅうことなんですよ。いわば妄想です。

その妄想を、指導する者はどこかの時点で断ち切ってやらねばなりません。心を折ってしまわないように、適度な痛みと恐怖を与えて、それを克服する経験をさせてやる。

愛が無いとそれが出来ない。だから相撲でも後輩の向上を狙ってしごきあげることを“かわいがり”っていうんですよ(最近はまちがった使い方をされているみたいですけど)。

妄想の痛みと実際の痛みの誤差が無くなると、不必要に相手を怖がらずに正確に判断できるようになる。今自分が感じている危険が妄想なのか、正確な判断なのか、それがわかれば的確な対処が出来る。

これが冒頭で述べた“武的な悟り”なのです。常ちゃんの眼に光が宿ったのは、真摯に稽古に取り組むことでこの悟りを経験したからに違いありません。

(つづく)