我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

初めに“武”ありき


武術は“武”を実行するための“術”である。初めに「“武”ありき」であって、その逆は無い。・・・これは昨日、富山支部長の小島氏と電話で話していた際に申し上げた言葉です。

私と小島氏の武術・太気拳に関する見解は、おおむね同じです。ただし、その表現の仕方や方法論が異なるので、手を合わせたり、言葉を交わしたりします。

“武”とは私的には単純なミリタリズムや格闘技ではなく、「有事に臨んで過不足無く対応できること」であります。場を収める(治める)その手段として格闘の技術「も」ある。

最終的に場を収めるには武力の背景が必須であり、武力を持つ者は“有形力の行使能力”とそのコントロール能力が必要です。私は人さまと比べて多少ではありますが「武力」を持ってしまったので、そのコントロールには心を砕かねば、と思う次第です。

実際に「武力」を使う際には、遠慮なく行きますが、出来れば抑止力として磨いておくにとどめる方が良いのでしょうね。

もっとも行きがかり上・・・だけではなく(面目ない!)・・・何度か行使してしまったので、「どの口が言うか!」と言われそうですが。

でも男の子ですから、仕方無いです。理想論は色々とありますが、力を行使する場面で出来ない、というのは駄目ですね。刀を抜く覚悟が無いのなら、武術では無く「健身法」として稽古されるのが良いでしょう。私はそれを否定しません。

ただ、太気拳の本質は“武”術です。抜くべき時に抜けない刀なら、最初から差さない方が良いですよ。武を語るなら、刀を抜く覚悟を持て。

何のために刀を抜くか。大切なものを守るためです。大切な家族、愛する人、大きなところでは国を護るため、そんな心を持つ人間は強い。自分のため、なんて小さい。弱いですよ。

だから強くなりたかったら、せめて愛する人くらい持ちましょうよ。
先日小島支部長がブログに書いたように、国体護持のために命をささげられた先人には、私たちは逆立ちしたってかなわないですよ。

しかし、いつかあの世で先人たちにお会いした時には、「島村尚武と申します!」と挨拶して堂々とお仲間に入れて頂きたいと思っています。

そのための稽古です。先輩方の真似は無理でも、周囲から「島村が来たからもう大丈夫だ!」と言ってもらえる男であり続けたい。それくらいのことはやっとかんと、ね。