我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

感性

カレンバッチ先生祭りの興奮冷めやらぬまま、三連休最終日を迎えた。家内と娘を笛の稽古に送り出して、小山市総合公園の駐車場横の木陰で稽古。

昨日一昨日と審査会や稽古、塾生との交流でお疲れモード。ということで、軽めに一時間半ほど汗を流して終了。

昼食後、漫画喫茶で一休みしてから妻子を迎えに行き、市内の喫茶室「音楽館」で珈琲タイム。

太気拳の稽古生募集のポスターを貼らせて頂いたお店だ。美味しい珈琲を味わいながら、マスターの感性に触れるのが小生の楽しみだ。

太気拳は感性の武術である、とは高木塾長が常々口にされる話である。いや、言うなれば、全ての芸事は感性の領域である。

我々が入店して少しした頃合に、時々見かける紳士がカウンターに座った。自然と会話になった。しばらく焼き物の話や美術や音楽のことで話が弾んだが、ひょんなことからレスリングの話に。

「何かおやりですか」と問われたので「空手や拳法を・・・」と返し、そこへマスターが、「太気拳という拳法を教えている方だそうです」と付け加える。

で、拳法について様々な質問を受け、それに応える。組手はあるが試合はないこと、ポイントの取り合いではない事などなど。

この方は、地元でフェンシングを指導されているということで、武道談義に大いに花が咲いた。驚いたのは、競技であるはずのフェンシングの世界に身を置きながら、「試合がない、というのは武道の本筋ですね」と言われた事だ。

武道は形態が似ているゆえ格闘技とごっちゃにされるが、格闘技は武道の一側面であって、全てではない。武道でも“強さ”は大前提であるが、最終的に大事なのはわが身を全うできるか否かである。

よって、戦わないことを含めて武道なのである。戦うべきか戦わざるべきか、即断即決で行動に移す。その判断に感性が大きく関わる。究極的には、事に及んだ際には人間力で対処するのが、武道の真髄なのであろうと思う。

10年近く前、太気拳を始める以前に就いたある先生に、フェンシング名人の決闘の話を聞いたことがある。

それは、「心技」と呼ぶに相応しいエピソードであった。先の常連客Sさんも、あるいはこのような世界を求めておられるのかも知れない。