我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

私の祖母の話(のすけ。)

昨年の11月、私の祖母が亡くなりました。92歳でした。
淡路島で一人暮らしをしていた祖母です。
90歳を過ぎても、オセロで人を負かすのが好きな人でした。
必殺技は 《ボケたふり》でした。

祖母にまつわる逸話で、私が一番好きなのは
『子豚の話』 です。
祖母が 7人産んだ子供のうち、次男の叔父には音楽の才能がありました。
『この子には、音楽の才能があるから 勉強させてやってください。』
と、中学の先生がおっしゃったそうです。
『うちは、金が足りんのぉ。勉強ゆうてものぉ。さて。どないしやのう。』
と、祖母は思案し、
ある日叔父に、1頭の子豚を渡しました。
『これで、何とかしてみぃ。』と。
当時中学生の叔父は、毎日懸命に子豚の世話をしました。
毎日学校から帰ると、八百屋だった祖母の店から売残り野菜を集めては
たっぷりと与え、ワラで子豚をマッサージしました。
『さぁよ。人間なぁ。一心は強いで。勉強したいゆう気があって
一心になるとなぁ。何か違うてくるねんなぁ。豚太らせる一心でなぁ。
じいちゃんの酒まで飲ませよったわぃ。そりゃもう
ぼてぇっと肥えた まるぅい 大きな豚になってのう。
高ぁいに 売れたんじゅわ。』

叔父は子豚資金で、音楽のレッスンに通い 音楽教師になりました。

祖母は信仰に燃えた人でありました。
人を励ますのが好きな人でした。
私は小さい頃よく祖母に
『 人に喜んでもらうのが大事や。 』
と、言われました。

昨年の夏、祖母に会いに行きました。
娘を連れて行きました。
祖母は元気でしたが、すこし《ぼけ》が始まっていました。
思いがけない場所に《大便をコレクションする》等もありました。

マダラにぼけでいるので、正気に戻る時もあるのです。
祖母はお日様が好きでした。
家の中に日のあたる場所を見つけては、日向ぼっこするのです。
日向ぼっこしながら、片膝を立てて座り、
私の娘(つまり曾孫)に語りかけるのです。
『ええか。人に喜んでもらうのが大事や。にこーっと、笑って
 人に喜んでもらうんや。』と、言いました。

私はこの光景が忘れられません。
あの首の傾げ方、あの語り口。
あれは、私自身が9歳の子供だったときに言われたのと
同じ言葉だったのです。

あぁ、これが祖母の遺言や。

と、思いました。

私達が栃木に戻り、ほんの数日で祖母は倒れ、
意識不明のまま11月に亡くなりました。

14人いる孫のうち、元気な祖母の姿を見たのは私が最後でした。
14人の孫のうち、一番遠くに住んでいる私に遺言が残りました。

私の祖母は立派な人でした。
なぜかというと、生き方が一貫していたからです。
私が9歳の時も、私が母親になって娘を連れてきたときも
一心に同じ事を説いて聞かせた その姿を 忘れることができません。

訃報を聞いて、再び淡路島に戻りました。
孫の中では なぜかまた私が一番乗りで、入棺に間に合いました。
叔父叔母達に『ちょうど、ええところにきた。これ、手伝いよ。』
と、言われ、祖母の頭に三角の布を巻きました。

小柄な祖母のはずなのに、死人の頭は重いのです。
布を巻く為に持上げると、ゴロリと、転がりました。
一瞬、自分の頭の中を白線が横切りました。
命が無いということは こういうこと と、実感しました。
そして 

『生きてるうちに しとかなあかんで。』

という声が聞こえた気がしました。
最後までモノを教えてくれる ばあちゃんでした。

長生きは命の芸術といいますが
ばあちゃんは、人生という芸術を見せてくれる
天性のアーティストでした。


わたしは、ばぁちゃんの遺言を受取りました。
ちゃんと、守って生きていこうと思います。
それすれば ばあちゃんが喜んでくれるから。

『ほうか。ほうか。ようやったのお。』といって
また。あの時のように。 
片膝を立て《ビクターの犬》みたいに首を傾げながら
話を聴いてくれるでしょう。
そして、手をとって褒めてくれるでしょう。

『人を喜ばすのが大事やからのう。』と、言って。

                 のすけ。