我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

武道教育

先日、ある先生とお茶を飲みながら世間話をしていた時のこと。

「島村君、俺は武道始めて六十年越えたけど、学校の武道教育現場から声が掛からんよ。君はどうだい?」

まー冗談と分かってますが、まだまだ掛からんですよ!とお答えしました。

何でも30時間ほどの研修で体育教師が俄か柔道家になれるんですよね?さてさて!一体何を教えて下さるのでしょうか。

剣道日本』10月号で友常貴仁先生が、刀とは「己の覚悟を形に示した神器」であり、それゆえ心の修養で敵を心服させるだけの修行を成した一人前の大人だけに与えられたものである、と云う趣旨の文章を寄稿されていました。

上述の覚悟とは、簡単に刀を抜き差ししない、やむなく抜く時は必ず斬る、と云うものです。

亡父が私の成人祝いに、日本刀を一振り贈ってくれましたが、その際に同じ趣旨の話しをしてくれました。

学校教育の武道でも、きちんと正座して礼法と刀を持つ者の覚悟、そして理法の表現としての剣道形や柔道形などを教えれば、それで十分だと思います。

それ無くして叩き合いや掴みあいを教育の名の下に教える意義は無いでしょうね。


半端な稽古時間で試合稽古や乱捕りを行っても、「戦いの技」から学ぶものはない。

自分の心身に意識を集中して一定のコントロールが出来るようになって、初めて自由攻防による検証を行うべきであって、下手同士の自由組手など猿の叩きあいでしかない。


時間が出来たら、小山で少年指導も手がけたい。鉄は熱いうちに打て。腰の刀の輝きに相応しい心技体を身に付けたツワモノを世に出さないと!


ほめて育てる、なんつーでたらめ教育受けた連中に、俺の老後の年金は任せられないぜ!!