我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

勝って打つ

遊びの天才・ラブリー


初場所千秋楽の白鵬 VS 朝青龍戦ですが、なかなか見応えありました。今場所は朝青龍で始まり、朝青龍で終わった場所だった、と言えるでしょう。

序盤こそ51対49とでもいうべき勝ち方がありましたが、徐々に調子を上げ、千秋楽本割での一番こそ落としたものの、つづく決定戦では白鵬の力を封じ込め、完勝と言っていい内容の相撲。

本割・決定戦と見ていて改めて気付かされたのが、立ち合いの大切さ。後半戦、憎らしいほどの強さを発揮していた朝青龍でさえ、本割の立ち合いでは「立たされた」ような形になりあっけなく敗れてしまっていた。

立ち遅れながらも、結果、後の先を取った白鵬も本当に立派だったと思う。まだ二十代前半だというのに、この一番については素晴らしい心の充実を見せてくれた。

太気拳においてもこのあたりの感性は一つの大きな壁であろう。組手においては、ここで打てば必ず入るという瞬間が必ず訪れる。だが、そこを全て捉えるというのは難しい。

剣道八段の試験は「そこ」を捉えるか否かで合否が決まる、という。いくら相手を打とうが試合に勝とうが、たまたま出した技が決まったジャンケン・ポンのような勝ちは合格の対象では無いとか。

このような試験に50歳前に受かる方が希に居られるという。私の場合、組手の最中「そこ」を捉えてはいても動けないことがまだまだある。今日の稽古での組手でも「そこ」で確実に動けなかったシーンが多々あった。

「そこ」が自由自在に取れれば、強打する必要性は無くなる。ただ単に相手をぶっ飛ばして勝つ、という組手は卒業したい。「打って勝つ」のではなく「勝って打つ」組手が出来てこそ、自分より強い人間に勝てる道理がある。

武道を標榜しながら、いつまでも筋力とかスタミナ、打たれ強さに頼った組手をやり、それが無くなったら競技どころか修行から引退するというのでは、少々寂しいものだ。

打つべき機を把握し切ること、そしてもっと言えば、自らの「攻め」で相手の心を崩してそのような状態を作ってしまうこと。極端な話、心と体が崩れれば朝青龍朝青龍ではなくなってしまう。

まぁ、得物を介さず生身の体で行う体術は簡単ではないのであるが、簡単には出来ないからこそ、生涯を掛けて取り組んで行く価値があるというものだ。

「勝って打つ稽古」を50歳までのテーマにしたいと思う。