我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

出来ないわけは無い

栗鹿の子


昨日、NHK総合で「白夜の北極圏・高さ1300メートルの大岩壁に挑む伝説のクライマー夫婦」を観た。凍傷で手足の指を失った山野井夫妻を描いたドキュメントだ。

番組案内ではないので詳しくは語らないが、手足の指を失ってクライミングに挑むのだからとにかく普通ではない。体力旺盛な健常者にとってさえ、容易なことではないだろう。

アタリマエだが、運動の世界では指は大事だ。柔道史に残る強豪・山下泰裕八段は大学時代の師匠だった佐藤宣践先生に「いくらお前が強くても、足の親指を骨折したらただの人だよ」と言われた、という。

親指どころか、まったく指が無い足で、山野井泰史・妙子夫妻は過酷な大岩壁に挑む。それを考えたら健常者の武道など、楽なもんだと心底思う。ちょっとやそっとの稽古で才能云々を語るなど、おこがましい。

100メートルを10秒で走る、というような特殊な能力は別としても、能力は、いかにそれを希求するか、そして、身体に対して如何なるイメージを持つか、により左右されるのではないだろうか。

夫妻は指を失ってから5年でグリーンランドの大岩壁に挑み、これを制した。傷が癒えるや否やトレーニングを再開したからこそ、なし得ることだろう。

じっくり身体を休めて、なんて考えていたら“指を失った自分”のイメージでトレーニングに挑まねばならない。それよりも、山への情念と、指を失う前の身体意識を基に鍛錬に励む方が、ずっと良いのだろう。

勿論、我々がおいそれと指を失うわけにはいかないのだが、ちょっと疲れたとか辛い、で稽古をさぼる訳には行かない、と思い知らされる。

太気拳は優れた武術ではあるが、やはり担い手は生身の人間だ。ギリギリの戦いにおいて最後に明暗を分けるのは先師のエピソードでも、身体操作の秘伝でも無い。人間としての総合力だ。

五体満足な自分が、稽古において身につけられない事など無い。稽古と工夫、そしてとことんその道を愛する事、単純だがそれしかない。


P.S. 写真はお土産に頂いた小布施の栗鹿の子。マイウーです。