我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

立禅についての考察

夫、鉄太郎はこう述べている。

『立禅を組む目的は、自分に何かを新しく付け加える、
という部分もあるが、それ以上に
本来あるべき自分に帰る、という意味合いが大きいと思う。』

立禅は 本来あるべき自分に帰り、
自らが自然の一部であることを知る為だという。

のすけ。 は、こう思う。

立禅は 自然回帰の為の行為では あるが しかし

非常に(非情に?)文化的に洗練されている と。

文化的に洗練されているということは

人間にしか出来ない行為である と、いうことだ。

人間が人間である以上 『自然』という言葉が指示すのは
ただ『野生。あるがまま。素っ裸同然』
という状態ではないはず。

『自然』とは
何らかの視点、人間らしい洞察と英知でもって認識された
世界観
であるはずだ。

世界観というのは おそらく
生命観(生命が廻りめぐる様子を知ること)
を含んでいないか?

ある人が静かに立禅をする様子が 
そのまま その人の世界観を現している。

立禅による 一心無我の集中が ある日(時として)
その人個人を超えた 大きな存在に 吸込まれる時がある。

その 大きな存在 を何と呼ぶのか?

のすけ。は、未だ 命名していない。