我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

武術に準備運動はいらない?

先日ふたつの流儀(古流柔術太氣拳)を学ぶ門弟から、武術における準備運動の必要性について質問がありました。

よく言われるのが、武術に準備運動は要らない!という意見です。喧嘩(などの突発的な闘争状態)なんかこちらの都合で始まるわけじゃないんだから、ごもっともだと思います。一方で、入念に準備運動を行うように、という指導もあります。皆さんはどのように考えられていますか?

私の答えは、武術の行使に当たっては準備運動は不要であるが、稽古においては準備運動を行うべし、です。

その前に、準備運動の定義と意義(機能、目的)について共通の理解が必要ですね。何をもって準備運動とするか、何のために準備運動をするのか、ということです。言葉が同じだから、意味するところが同じ、ということはあり得ません。その定義がバラバラでは、そもそも議論になりません。

〜島村が考える準備運動の定義〜
準備運動とは、心身を学びや鍛錬に最適な状態に整えることを目的とした運動行為を指す。

ここで大事なことは「心身を」整える、ということです。ウォームアップという言葉があります。身体能力を最大限に発揮出来得る状態を得るために、身体を動かして温めることですね。これは心にも必要なことだと思います。
私たちのメンタルは外部環境に大きな影響をうけます。武術を学ぶ人の多くは、学業や職業が生活に大きなウェイトを占めています。武術活動はあくまで余暇です。道場は勤めの終わる夜から稽古時間が始まることが多い。皆さん、仕事終えて稽古に駆け付けるわけです。ということは、脳みその遣い方仕事モードから武術モードに変わる、ということです。それが心の準備運動です。身体の面でも同じです。より学びを受け取りやすい状態を作るために、私は準備運動を稽古前に行います。

ですので、武術の稽古においては、すべての準備運動はマインドの介入を必要とします。例えば、ある動きを行ってその前後の状態を比較し、運動後に動きが改善されることを意識的に知覚します。そのことにより神経系統が活性化され、「改善する力」「気づきの能力」そのものが向上します。ちなみにこの場合、単なる「筋伸ばし」のようなことはあまり意味がありません。筋伸ばしで一時的に可動域が広がることは、本質的な改善ではありませんので。

賢明な読者の方はお気づきでしょうが、そういう意味でスポーツ競技における準備運動と、武術における準備運動は同一ではありません。詳細は割愛しますが、スポーツ競技という特別かつ限定的な心身の運用と、武術のそれとは種類が異なる、ということです。これはどちらがいいとか優れている、という話ではありませんので、誤解なきようお願いいたします。

稽古では身体の隅々まで知覚して行い、神経系統を鍛えます。そして、いざ戦う場合には外見的には準備などは一切せずに、稽古で培った知覚力を用いて今の状況を瞬時に知覚し、最適な心身の運用を選択する。

そのようなことであると、私は考えております。だから、武術家・武道家を名乗る方が「急に動いたら身体が壊れますからね、準備運動をきちんとしましょうね〜」などと言っているのを聞くと、「とっさに使えない技法なんか教えるんじゃないよ!」という、憤りがわいてくるのであります