我が拳客商売

拳の研究・指導を生業に据えての世渡りの中で起こる悲喜こもごもを、筆の赴くままに書き綴っております

ゴンフーとは何か〜その4

前回【ゴンフー論】について書いてから、だいぶ時間が経った。前回までの記事URLを下記しますので、参照下さい
<ゴンフー論>
序章記事 URL:http://d.hatena.ne.jp/superbody/20161017 
第一回記事 URL:http://d.hatena.ne.jp/superbody/20161023 
第二回記事 URL:http://d.hatena.ne.jp/superbody/20161211
第三回記事 URL:http://d.hatena.ne.jp/superbody/20170415

さて、前回の記事では「龍馬を斬った男」として有名な今井信郎が言ったとされる「免許持ちを斬るのなんか簡単なことだ」という至言について書いた。今回はこの至言の構造についてさらに踏み込んでみたい。

武における身体技法は多くの場合「心身の理」ではなく、試合形式や流派の都合で組み立てられている、と前回書いた。武道がスポーツとして捉えられている現代社会の話ではない。武士と言う帯刀が許された人々が存在し、人を斬る(斬られる)ということが現実に起こり得た時代にすら、そのような現象があったということに思いを致して欲しい。

史実の詳細については様々な見解があることを承知で言えば、江戸末期の剣術といえば従来行われてきた【型稽古】に加えて防具をつけての竹刀稽古、すなわち【自由攻防】の稽古が盛んに取り入れられるようになった時期だ。
【型稽古】は二人組で(空手・拳法では単独で)定型の攻防動作を演練する稽古である。型稽古においては型の求める動作にしたがって心身を運用することで、その流儀の理念に沿った心技体を養成することをその目的とする。
一方、【自由攻防】の稽古は(一定のルールはあるものの)相手と自由に打ち合うことを通じて心技体の検証を行う。
相手の変化が決まっていない実戦においては、心身の「居付き」は最大の禁忌であるが、定型動作を反復する型稽古だけで約束ごとのない実戦を乗り越えるのは、不可能とは言えないまでも相当な難事である。
逆に、心技体の基盤が確立されてもいないのに竹刀を振りまわしても、子供のチャンバラごっこと大して変わらない仕儀になるであろうことは、火を見るより明らかだろう。自由攻防は心技体の検証であるが、確立されていない心技体を検証することなど、出来ない。

帯刀が許される武士階級が存在し、型と竹刀稽古が両輪として機能していた江戸末期の剣術こそは、あらゆる意味で武の理想的な修練体系を確立していた可能性があると言えよう。
行動の成否を決めるのは、意識の持ち方である。どのような意識で行動するかによって、その行動の成果はまったく違ったものになる。
江戸時代は200数十年にわたって天下泰平の世の中であった。多くの武士は生涯一度も人を斬らなかったと言われている。それにしても、元服して以降斬れる刀を腰に差している彼ら武士階級の捉える剣術と、下手をすれば居合刀すら振ったことのない現代の【剣道家】の捉える剣道が、同じであるはずがないのは、少し考えればわかることだ。
そのようなレベルにあった先人たち。しかしながらその時代にあってすら、今井信郎がうそぶいたごとき「堕落」がその萌芽をみせていた、ということだ。いつの時代であれ人は堕落、すなわち易きに流れようとする傾向から脱することが出来ないのかもしれない。
長らく武に携わりその指導を生業とするようになった私が気付いたことがある。それは
「人間の行うあらゆる行為は、自己目的化する可能性を持つ」 
「手段の自己目的化をふせぐためには、その行為の本来の目的を明確にし、かつ常にその原点に立ち返ってあり方を再確認する必要がある」
ということである。
念の為であるが自己目的化とはWikipediaによれば「ある目的のためにたてた「目標(値)、達成のための手段、あるいは具体的な行動など」が、いつの間にか「目的」にすり代わり(そして概ね、本来の目的は忘れられ)、目的達成のためには効果的でない、あるいは逆効果の、目的に反する事態に陥ること」とある。まるで何かを見失うかのように行動は自己目的化していく危険性を秘めていることを、忘れてはならない。

江戸末期の剣術は防具の発達により自由攻防の稽古を盛んにおこなうようになった。
自由攻防の稽古(今後便宜的に【乱取り】と称する)とて【稽古】である以上、ある目的を達成するための【手段】である。乱取りはいかに実戦的に見えようが、実戦そのものではない。実戦そのものを稽古として行うことは、法的にもそして道場の運営上からも簡単に出来ないのは自明の理である。
ところで乱取りを採り入れて稽古体系の革新を実現したのは、剣術だけではない。明治時代になって柔術をベースに生まれた近代武道【柔道】がその嚆矢となろう。柔道創始者嘉納治五郎師範は起倒流柔術・天真神揚流柔術の免許皆伝である。この二流を始めほとんどの柔術では二人で行う【型稽古】をメインとしていた。腕を決めながら投げたり、髪をつかんだり、指を逆に持ったり、急所に当て身を入れて投げたり・・・といった危険な技法は自由攻防の稽古のなかで用いるわけにはいかない。そこで嘉納は柔道として出発してからも型稽古を重視したのであった。
嘉納師範は柔術に含まれる危険な技法を排した乱取り形式を考案して盛んに行い、そこに体育的要素も期待した。そして柔の求める武術的身体の養成と、柔術本来の危険な技法は型で稽古するという体系を打ち立てた。嘉納はのちに型を【文法】に、乱取りを【作文】に例えた概念を述べている。そして両者を車の両輪であるとして、補完し合うことを奨励した。

だがしかし・・・結論から言えば柔道は、嘉納の期待したような形での完成はみなかった。分かりやすく一種のゲーム性のある乱取りが独り歩きを始めたのである。のちに嘉納は柔道の在り方について「私の目指した柔道ではない」と述べた。嘉納が没したのは昭和13年であるから、昭和の初期にはすでに嘉納の理想と柔道の現実は乖離していた、ということになる。

現代武道の多くは【乱取り】を重視した稽古体系となっているとともに、組織的に競技試合を行っている。自由攻防の稽古と戦う場を持つ現代武道の修行者だが、多くの場合、ルールが変わると対応が難しいようだ。これは空手家に柔道をさせるという違ったタイプの運動への対応を言っているのではない。自流の試合ルールに【禁じ手】をひとつ減らした(自由度をあげた)だけで、とたんに対応力が落ちる。
すなわち【自由】攻防の稽古とは言っても、それに習熟したからあらゆる攻撃に対応できるようになるわけではない。これは上述した【自己目的化】のせいであろう。そこに目に見える形での勝ち負けが現れる以上、稽古の手段(心技体の検証、理の体現度の検証)であることを忘れて、無理にでも勝ちにいく(自己目的化する)。本当の戦いなら踏み込めないような間合いでも、ルールを(相手が遵守することを)信頼して踏み込んで行くシーンが競技試合では見られる。
競技者としてはルールを理解し最大限に活用することが正義であるが、野暮を承知で武術的な視点で観るならば、無理が通れば道理が引っ込む、ということになる。もちろんこのことは試合に勝つべく最大限の努力を行うことの尊さとは、全く別の話だ。私でも仮に試合に出て勝ちを目指すのならば、ルールを熟知・理解し、活用するだろう。
ではなんら禁じ手も安全策=ルールも設けない乱取りをやり込めばいいのか、と言えばそうではない。そんな稽古をしていた日には、理論的には現時点で最強の者だけが累々たる屍を乗り越えて上達できるだけだ。実際には、分かりきって【屍】になりたがる奇特な者はいないだろうから、成立たない話だ。稽古相手なくしては、何人たりとも高い段階へ進むことはできない。

ここでさらっと「高い段階へ進む」と書いた。高い段階に進むとは、今の自分を越えて違う次元に行くことである。それはすなわち壁にぶつかる、頭を打つ、ということであり、発展のための自己否定である。自由攻防という名のもとに、自分勝手な動きで勝ち進む者に決定的に欠けるのが其処である。勝ち進むがゆえに課題が見えず、課題が見えないから次に進む手掛かりがみつからない。これもまた「後来習態の容形」である

ここでふたたび【型稽古】を俎上に挙げる。型は、外見上は定型動作の訓練であるが、この定型動作の真の目的は【動作そのもの】を身につけることではない。そもそも、型に含まれる動作を素人や初心者が見て「これは使える!」と感じることは極めてまれである。型の動作自体は試合や組手で遣う形として表現されていないからである。
では武術の【型稽古】は無用の長物なのか?戦いへの対応力を養成するという観点からは意味のない行為なのか?時代遅れの稽古法なのか。条件はいくつかあるが、答えは断じて、否!である。型を徹底的に究めて行くことこそが、武の王道である。型稽古こそが【ゴンフー】を身に宿すカギとなり得ると私は考える。

なにゆえに【型稽古】なのか?
【型稽古】であればどんなものでもよいのか?
【型稽古】で上達する条件とは何か?
そしてそもそも【型】とは何か?
・・・といったことについて、次回は書いてみたいと思う。

次回の為にキーワードをあげておく。それは【抽象度】【抽象化】である。
(つづく)